08/03/23

●昨日観た、TKG Contemporaryでの福居伸宏展「ジャクスタポジション」について。
眼が強制的に開かされて、そこに像が貼り付いてくるような経験がある。
人は普段、風景を観る時、それを空間的に把握しているが、視覚像そのものは空間的なものではない。つまり人は、視覚像を空間的な認知の助けとして利用している。空間的な認識(五十メートルくらい先に左の曲がれそうな道がある、とか)だけでなく他にも、表情による予測(空が暗くなってきたから雨になりそうだ、とか、この木の床は腐っていそうだから体重をのせない方がいい、とか、この林檎は赤くなって食べごろだ、とか)などもあるが、それらは基本的に行動のための判断に結びつくもので、確かに、電車のなかから眺める風景とか、散歩の時に見ている風景とかは、そのような行動の必要性からゆるく切り離されているけど、しかし、まったく切り離されている訳ではない。見ることは常に時間と空間のなかにあり、眼はいつも動いていて、それは時空のなかでの身体の動きと連動している。
勿論、見ることは認識や行動とだけ結びつく訳ではない。林檎の味を味わうように林檎の赤を味わうし、肌への感触を感じるようにざらざらした物の表面の表情を感じるし、心臓の鼓動のリズムを感じるように、規則正しく並んだ建築物の柱からもリズムを感じる。つまり行動や認識から切り離されて自律した「感覚」そのものを生じさせもする。このような意味で「感覚」は、必ずしも時間と空間の秩序のなか(つまり人間の行動の必要性)に納まるものではなく、時空からはみ出た場所での経験を構成することもある。
しかし、福居伸宏の写真作品によって与えられる視覚的な経験は、これらのどれとも異なっているように思われる。それは都市の風景であり、映っているもののほとんどが人工物である。光源もすべて人工的な街灯や蛍光灯などの照明である(おそらく、長時間露光で弱い光を捉えたであろう画面は、人間の眼が見る光とは別種の表情をもっているかのようだ)。しかしそこには人間が一人も映っていない。フレームの全ての場所がほぼ同等にピントが合っているので、どこから、どこへ向けて撮影した(見た)という視点(支点)が感じられない。(それは、似た表情の風景が複数枚並べられていることでさらに強調される。)モノクロではなくカラーであるが、色彩は最小限に抑制されている(しかしそこには、モノクロのトーンには解消されない、余剰としての色彩の気配がある。)。
人工物であるが、そこに人がいない。しかしそれは廃墟ではなく、そこには電気が送られていて、電気による照明が輝いている。人に捨てられ、時間のなかで朽ちた廃墟ではなく、いきなり人間だけが消去されてしまったかのような風景(つまり、人間こそが、風景から捨てられている)。多くの建築物は直線によって構成され、その窓や柱も規則的に並んでいる。だが、同一画面に映り込む複数の建築物は、その用途やデザインが異なるだけではなく、建てられてからの時間や使われ方も異なるため(そしてその全てに等しくピントが合っているので一望することが出来ないため)、一つの画面に同時に複数の時間が映り込んでいるようである。人間によって作られ、使われたという時間はあるのに、しかし人間がいない。だからおそらくここには、たんに支点の消失があるだけでなく、何かを「見ている」人間が消失している。人間から切り離された「視覚像」を、人間である観者が「見て」いる。いや、人間から切り離された視覚像なのだから、それを「見る」ことは人間(観者)には出来なくて、必死にそれを見ようとして、近づいたり遠ざかったりする。何とかそれを「見る」ことが出来なければ、人は自分が存在する位置を失ってしまう。そこに写されているのは、今、自分がいる場所であり、自分がそこで生きている場所であるはずなのに、自分ではその場所を「見る」ことが出来ないなんて。(きわめて素朴な感想としても、我々は「こんなもののなかで」生活しているのだ!、という驚きもある。)
いや、だから、見るのではなくて、視覚像が向こうから勝手にやってきて、強制的に貼り付くのだ。それは、行動や認識の指針ともならず、味わうことも出来ない、暴力的に押し付けられた視覚像であり、その過度に鮮明な像のあまりのクリアーさに犯され、寄生され、脳が乗っ取られるかのような強烈な経験を強いるようなものなのだ。私は、嫌なのに、勝手に勃起させられ、勝手に精液を搾り取られ、勝手に快感を感じさせられている、かのような感触。世界は私の外側にあり、私はそれを知ることが出来ず、しかしそれに暴力的に従わされる。そこでは、認識し、行動し、あるいは味わう主体としての人間が廃棄させられ、世界そのものに乗っ取られしまっているかのようだ。
しかし、福居伸宏の写真を見るという経験には、そのようなイメージの経験の強烈さだけでなく、ある種の郷愁のような、やわらかい感情が、同時に含まれている。それは、強制的な射精のあとにやってくる、なだらかな倦怠のやさしい感触であるかもしれない。あるいは、あらゆる能動性を剥奪された後の諦めと共にやってくる、冷たい安らかさのような感情なのかもしれない。福居伸宏の写真から染み出してくる、あの無機質でやわらかな光は、(おそらく資本主義下の都市生活者になら無意識のうちに共有されているであろう)世界に身体や脳が乗っ取られるかのような記憶の感触に、非常に危険なやさしさをもって触れてくるものを含んでいるようにも思われる。