●新宿で山方伸さんの展示を観た。
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普通にものを「見る」ときには、異なる層として、あるいは別のカテゴリーとして受け取るものを、写真は、印画紙の上の像としてフラットに配置し、フラットに見せるという傾向がある(写真の像は一層しかない)。例えば、光が当たっていてピントが合っていれば後景と前景は同じ質と強さを持ち、物の実在感とテクスチャーも同じ強さをもち、実物と反映像と影とも同じ強さをもつだろう(写真はそもそもそれ自体が反映像なのだから)。壁に黒々と落ちる影やペンキの剥げが、石や木のような実在するものよりも強く迫ることもある。だからこそ、写真には視覚的な圧縮の効果があり、写真に撮られることによってこそ見えてくる細部もあり、そこに目を奪われもする。モノクロで撮っていた時の山方さんの作品もまた、そのような写真の視覚的圧縮の特質を生かしたものだったのだと思う(とはいえ、山方さんの作品は以前のものも、視覚像の圧縮が画面をフラットにしないような配慮がさされていたとは思う)。
しかし、最近の、ハーフカメラで縦長の構図で撮っているカラーのシリーズでは、そこに「撮られているもの」たちがそれぞれ異なるもので、決してフラットではないのだということを、もっとはっきりと示そうとしているように見えた。つまり、そこで示されようとしているのは、視覚象ではないというか、少なくともそれだけではなくて、「それ」が見えた時の視線の動きではないか。「それ(見えるもの)」ではなく、視線が曲がったり、ズレたり、見上げたり見下ろしたりする、その動きそのものを示そうとしているのではないかと思ったのだった。見えるものは、そのような動きのなかで「見える」ようになる。
山道を歩いていて、角を曲がるといきなり古いドラム缶が目の前にあってその色とテクスチャーがぐっと迫ってくるように目に入り、圧倒されて視線を逸らすと、地面の草の上にプランターや軍手が放置されているのが見えて、振り返ると今まで登ってきた坂道が曲がりながら下っているのが見える、とする。その時、ドラム缶、プランターや軍手、坂道の曲り等の視覚像の、「感触」や「現れ方」は、それぞれ違っているだろう。ぐっと迫るテクスチャー(ドラム缶)、なにげなく放置された物のたたずまい(プランターと軍手)、空間の広がりと曲りによる距離感と視線の動き(坂道)、それらの「現れ」は同時に起こるのではなくそれぞれ切断され、不連続に、継起的に起こり、それぞれ異なる感覚の質、異なる距離感、異なる種類の強さをもって現れる。それらはその都度、別々に現われ、異なる反応を見ている者に起こさせる。ぐっと迫るテクスチャーはこちらの身を軽く引かせるかもしれないし、放置されたプランターは逆にそちらへと興味と視線を吸い寄せるかもしれない。下り坂の曲りは空間の広がりと共に複雑な地形を意識させるかもしれない。
これらの、視線の動きや感覚の変化は、一枚のフレームのなかに圧縮された視覚像(視覚的な圧縮と配置)では上手く表現できないし、また、同じフレームサイズで、きれいに並べられた複数の写真で表現することも難しい。それらはもっとバラけていて、均質ではなく、ブランクを含み、動いている。複数の異なる感覚が継起的に現われるという意味でも動いているし、それらを見ている人の身体や関心(関心の度合い)も動いている(そしておそらく、感覚と感覚の間にあるブランクも均質ではない)。ある物に対しては軽く一瞥するだけで目を逸らし、別の物のもとには視線を長い時間留めるかもしれない。しかし、一瞥しただけの物だからといって印象が薄いとは限らない。一瞥で十分な印象の強さがあり、ゆったりと視線を引きつけ続けるものの別の強さもある。感覚はアルバムの上にきれいに並べられない。あるいは、箇条書きにはできない。
山方さんが写真によって示そうとしているのは、ただ「見えるもの」だけではなくて、「見ることによってはじめて何かが見える」という行為の全体のなかであらわれる「見えるもの」であって、そしてその「見ること(行為)」が決して一様ではなく、「見えるもの」によってそれぞれ異なっている(常に動いているしバラつきもある)ということ、そのものであるように思われた。
写真に写っているのは、山方さんの実家の近くの、山間に点在する集落であるそうだ。高低差の激しい集落を歩いてまわって撮影するのだと、と。では、その写真を観る者は、山方さんの「見る行為」と「見えたもの」とを(つまり山方さんが「撮影する行為」を)追体験しているということになるのだろうか。必ずしもそうではないように思う。その写真が示すのは、「見えるもの」が「見る行為」のなかで現れるというそのことであり、つまり、「見えるもの」は必ずその背後にある「見る行為」と繋がっているということだろう。もう少し言えば、具体的に見えている写真(視覚像)の背後に、「見る行為」(の不連続性)があり、さらにそれ(不連続な動き)を促すもっと大きい何かがあるという感覚であるように思われた。その(見る行為を促す)大きい何かこそが、山方さんにとっての「風景」ということなのではないだろうか。
その風景は、決して全体を俯瞰的に眺めることは出来ず、限定的で不連続である様々な断片的感覚の(間にブランクを孕んだ)配置=モンタージュによって、その存在の気配を辛うじて示すことができるようなものだ、ということではないだろうか。山方さんの展示の形式は、そのような要請によるものではないかと思った。