●永瀬さんがブログに15日の日記について書いてくださっています。
http://d.hatena.ne.jp/eyck/20130418
対象化できる「穴」と対象化できない隙間(ブランク)についてですが、ぼくは隙間を積極的なものとして考えています。だから、永瀬さんたちの対話に忠実に考えると、(1)画面のなかで意識が行き届かなくて弱くなってしまっているところ、(2)「穴」として意識的に描かれたところ、(3)隙間(ブランク)、の違いということになるでしょうか。
(3)の、隙間やブランクとしてぼくが考えているのは、見ること(見えるもの)を成り立たせている見えないもののことで、比喩として言えば、映画のコマとコマの間にある断絶のようなもののことです。あるいはそれは、カットとカットの間にあるものとも言えると思います。コマとコマの間、カットとカットの間をわれわれは見てはいないのですが、そこに断絶があるからこそ、それを飛び越えることで運動が表象され、あるいは異なるカット(ロングショットとクローズアップとか)が切り分けられ、切り分けられることで異なるイメージや距離感の接合(モンタージュ)が可能になる、というような。
それは一枚の平面の連続したひろがり(絵画)のなかにもあって、平面上のすべての場所を等しく見ているとすればそこからは何も見えず、落差や濃度の違いがあるからこそ、一枚の画面がそれによって不連続な複数の局面に切り分けられ、切り分けられたものの接合−再統合によって、そこにイメージなり対照性なり動きなりを見ることになる。例えば背景と前景という最も単純な切り分け−統合はおそらく、生物学的な基盤によって自動的に行われると思います。その時おそらく、背景と前景との間にそれを切り分ける隙間(ブランク)が無意識のうちに作動している、と。これは別に特別なことではなくて、テレビを夢中で観ている時に電話が鳴ってふいに注意がこちら側に戻ってくると同時に「電話」が意識化される、という時の、二つの注意の間にある移動−切断と同じだとも言えます。
あるいは平面について考える時には、ホックニーのジョイナー写真を構成する複数の写真の、ショットとショットの間にあるものを「隙間」として考えている、と言うと分かり易いかもしれません。一枚のスナップショットはフレームを限定することで「その外」をつくりだしますが、微妙にフレームや距離感の違うスナップショットが複数枚重ねられると、同時に、微妙に少しずつ違った「その外」も重ねられることになり(物理的にはのっぺりしたグレーの地だとしても)、目には見えていない少しずつズレた「その外」の重なりこそ「隙間」となって、見えているイメージを厚くする。
「図と地」という時の「地」と言ってもいいのですが、地と言ってしまうと、それぞれ異なった図たちを支える共通の地盤、まさに背景(背後にある母胎、カントの言う時間・空間のような感性を成り立たせる先験的な形式)のようなイメージがまとわりついてしまって、例えば古典的映画のように客観的な三次元空間が想定されて、それを表象するような(三次元空間と矛盾しなしような)モンタージュが行われるときのカットの隙間にあるものというイメージになると思います。でもそれだけではなく、(ベタにゴダールみたいなと言ってもいいのですが)空間的にも時間的にも意味的にも不連続であるようなイメージが接合される時に、それが接合された時に生まれる断絶感やショックがあり、にもかかわらずその二つのイメージの接合に何かしらの必然性があるように感じられた時、不連続化することで連続性をもたらすブランクが作動している、と。この時、イメージが切片化していると同時に、ブランクもまた切片化している(マトリクスとして背後にあるわけでは必ずしもなく、イメージとイメージの落差によって隙間が生じる、イメージとイメージとの落差が隙間を創造する)と言えると思います。イメージとイメージが隙間によって切り分けれ、接合されるのと同様に、隙間と隙間もまた、その間にあるイメージによって、切り分けられ、接合される、と。
このような、イメージとイメージ(あるいは感覚と感覚)の間にある隙間は、ある「一つのイメージ(ひと塊りの感覚)」を構成する細部と細部の間にもあると考えています。一つのイメージは多数の隙間を内包している、と。絵画の場合それが、タッチとタッチの間の隙間ということになります。
これはアラカワの言うような意味でのブランクとも通じると思うのですが、そこまでいくと話がややこしくなりすぎるので…。
例えば、五十年代のベーコンの作品にみられる、あのスカスカな人物像やスフィンクスを描くタッチとタッチとの隙間は、そのような隙間(ブランク)として作用しているのではないかと思いました。勿論これも注意の向け方一つで、その隙間を穴として注目すれば、それは対象化可能な穴になってしまうわけですが。しかし、作品全体としての立ち現われ方のなかでその像を見る時に、複数のブランクと、それを飛び越える(見る側の)複数の飛躍とが、像の現れのなかに(像が「見えた」時には既に)含まれているように、ぼくには感じられました。上田さんが対話のなかで、スフィンクスのイメージについて、「異なる時間性において立ち上がる」というような言い方をしていたと思うのですが、感覚としてはそれに近いように思います。パッと見には像は生々しく立ち上がるのですが、その実質を(その実在性による押し返しを)改めて目が探ろうとすると、目がいなされてすり抜けてしまう。だけどその瞬間的な立ち上がりが、既にいくつもの落差と断絶とを含んだ多時間的なものである、という感じ。実在感も厚みもないけど、妙な感覚的な強さがある、と。そういう像を成り立たせるものとして、タッチとタッチとの隙間が機能している、と。
(このような、タッチとタッチの隙間については、どうしてもセザンヌのことを考えてしまいます。ベーコンのタッチのつくる隙間とセザンヌのタッチのつくる隙間とは違うので、ベーコンがセザンヌに似ているということではまったくないのですが。)
例えば三幅対の絵のフレームとフレームとの隙間にしても、それはジップのように対象化されるものではなく、ある一枚から別の一枚へと注意(感覚)が移動することによる不連続性と、不連続であることによって異なる感覚が(混じり合うのではなく)接合されるというあり様を実現するためのものなのではないかと感じました。とはいえ、ぼくは三幅対の作品はあまりいいものと思えなかったので、この点については強弁する気はないのですが。今回のベーコン展に来ていた七十年代以降の作品では、そのような積極的な意味での隙間がみられなくなり、故にフィールドもイメージも単調になってしまっていると思いました。
以上のような隙間(ブランク)の作用と、顔や身体の真ん中に「これを見ろ」といわんばかりに描きこまれる「穴」、あるいは、視線を吸い込むような口(つまり「これ」と指さすことのできる「対象化された空隙」)とは、かなり機能が違うように思われるということが言いたかったのでした。あれらの対象化された穴については、むしろそれに注目させることで、他の場所を盲点(隙間)とするような狙いがあるのかもしれないと感じました。