●とんぼをみかけた。
●山方伸さんがブログで紹介している、「町を歩いていて発見した」という写真が素晴らし過ぎる(http://d.hatena.ne.jp/blepharisma/20100808)。これは一体どういう写真なのだろうか。掲示板みたいなものに無造作に貼ってある感じなのだが。
●今日じゃないけど、最近観た美術館の展覧会では、横浜美術館の「印象派とエコール・ド・パリ」がちょっと良かった。
●セザンヌの斜面の絵(「プロヴァンスの風景」)がすごく変だった。斜面をこんな風に描こうとする画家はセザンヌ以外にあり得ないと思う。セザンヌがもし「構図」から発想する画家だったら、こういう構図はあり得ないはず。画面の多くの部分を斜面に生える木の緑が埋めているのだが、その木と地面との接点がまったく描かれていない。建物と地面との接点も木が隠してしまっている。そもそも斜面そのものをほとんど木が隠してしまっている。それでも(それだからこそ?)土の隆起の感じが迫ってくる(絵画にとって斜面−坂道を描くことがいかに困難かは、風景画を描いたことのある人なら誰でも知っているだろう、例えば岸田劉生の切通しの絵とか)。斜面であることを説明するかのような、画面左下の斜めの線や、右上の上方へと遠ざかってゆく遠景を手で隠してみても、斜面であることがちゃんと分かる。木々の重なり方と、木の背後から迫ってくるような土色のせり上がる感じが、地面の傾斜−盛り上がりを表現しているのだと思う。セザンヌは地面の傾きこそを描こうとしている。画面の八割方を木の緑が占めているのだが、それでもこの絵は明らかに斜面の絵であって、木を描こうとしている絵ではない。
●モネの積み藁や睡蓮が超クリア、というか、過剰にクリア。セザンヌの言うとおり(「モネは眼でしかないが、なんと素晴らしい眼だ」)、絵画がこのような過−視覚(過呼吸みたいな意味で)の方向に行くことへの根本的な疑問がぼくにはあるけど、とはいっても、実際に作品を眼の前にすると、有無を言わさずにすごいと言うしかない。まさに眼が釘付けになる。全ての展示作品のなかで、モネの積み藁と睡蓮の絵は、強さと密度とインパクトで群を抜いていると思った。この、異様なまでの密度とクリアーさがあってこそ、そこから突き抜けて、あらゆるものが色彩と筆触へと溶解してゆくところにまでゆくのだ。
●ユトリロって、目の端が捉えるパッと観の印象はすごく良くて、おおっ、と思うのだが、近づいて正面からちゃんと観ると、そんなには良くなくてちょっとがっかりする。キスリングとかヴァン・ドンゲンの絵は、ぼくにはどうしようもなく下品に見えてしまう。
●パスキンとスーティンが良かった。まったく期待していなかったのだが、思いの外良かった。スーティンの絵を良いと思ったのははじめてだった。スーティンを良いと思う日が来るとは思っていなかった。パスキンは、前に大阪で観た絵もけっこう良かった。