●昨日、『リミッツ・オブ・コントロール』(ジム・ジャームッシュ)のラストに裏切られたような気持ちになって、帰りの電車のなかでも打ちひしがれて、変にそわそわ落ち着かなくて、最近では部屋で飲むのは出来るだけ控えていてほとんど飲まないのだが、酒屋に寄って日本酒を買って帰り、日記を更新した後でやけ酒のように飲んで、そのまま眠って、朝起きたら、目覚めた瞬間からずっと、なぜか『ペット・サウンズ』に入ってる「Pet Sounds」が頭のなかで響いていて、それが勝手に何度も何度も繰り返し自動再生されて、いくら頭のなかから追い払おうとしてもずっと居座っていた。まるで夢のなかから持ってきてはいけないものを持ち帰ってしまったみたいだった。しかし何故「Pet Sounds」なのかがさっぱり分からない。特に好きということもないし、繰り返し聴いたということもない。普段、「Pet Sounds」ってどんな曲なのかと聞かれても、思い出せるかどうかすら怪しいのに。昼前になってもまだ「Pet Sounds」が、次の「Caroline No」へと移ってゆく機会を失われたかのように、こわれた再生装置のように響きつづけていて、あの歪んだ高音のギターの音が、ますます歪みが大きくなり、とめどなく高音へと滑ってゆくようで(想像できる限りで最も高い音の域で響いているようだ)、このままでは頭がおかしくなりそうなので、あまり聴かないCDの入った段ボール箱をひっくり返して『ペット・サウンズ』を探しだし、実際に「Pet Sounds」を再生してみると、頭のなかで鳴っているものよりもずっとしっとりと落ち着いた感じで、何度か繰り返し聴いているうちに頭のなかの(夢のなかの?)「Pet Sounds」は消えてくれた。
●ぼくは、学生の頃は、モネのように、ボナールのように描きたいと思っていた。でも今は、セザンヌのように、マティスのように描きたいと思っている。この違いは、かなり大きいものだ。
睡蓮に限らず、モネが主に水面を描いている絵では、複数の色彩、無数のタッチは、キャンバスの上で混ざり合い、絡み合って、分離不可能の塊となって一つの平面をつくりあげている。それは一つの平面でありながら決して一つとして把握できないような移りゆく多様性を含みつつ、しかしその塊を複数の要素へと切り分けることが不可能に近いほどに絡み合っているので、人はその一つの平面(塊)を、複数の面の重ね描きとして見る。人がそこに見るのは、水面そのものであり、水の深さであり、表面の反映であり、水面に浮かぶ睡蓮の葉であり、水面に射す光の戯れである。それらの本来別々であるべきものが、分離不可能な塊として、一つの(厚みのない)平面に重ねられているから、人はそこに平面という厚みのない厚さ、深さを感じ取る。ボナールの、ぼそぼそと重ねられた粒子状の無数のタッチ=色彩も、それらが一つの塊として、分割不可能な色彩=光が振動する場をつくりあげる(構図としては、ナビ派風にわかりやすく分割されているとしても)。人がそこに見てとるのはやはり、(空間ではなく)色-光のもつ厚みであり深さである。
セザンヌにおけるタッチ、マティスにおける複数の色-面は、混じり合うことなく、むしろ分離している。今にもバラバラに解けてしまうそうなものが、ほんの薄皮一枚によってかろうじて結びつけられているかのようだ。そこで行われているのは、複数の要素の分離不能なまでの絡み合いではなく、むしろ不自然なモンタージュであろう。タッチとタッチの間、ある面と別の面との間にあるのは、つながりであるよりもむしろブランクであり、その不連続性は、それを見る者にショックを与え、そのブランクを「飛び越える」ことを要請する。そこにあるのは、一つの塊としての平面ではなく、複数の平面であり、しかもその複数の平面のつながりは決して事前に約束されたものではない。それは、画面の上であらかじめ解決され(統合され)切ってはいない。つながっていない(かもしれない)ものをつなげるのは、それを見る人の見るという行為であり、それを見る人の頭のなかで起こっている複雑な情報処理の過程である。平面でしかない絵画が立体化し、静止しているはずの画面に動きが生じるのは、この時の頭のなかでの情報処理の過程(解決されずに、それが進行中であること)によってであろう。この時に(それを見ている人の頭のなかに)絵画空間が生まれる。
モネの描く水面は、無数の異なる次元の分離不能な絡み合いとしての一つの塊(平面)であるから、それを見る人は、それをいくつもの要素へと切り分けようとし、しかし、完全に切り分けることは不可能であり、そのことによって、そこに厚さや深さが(見ている人の頭のなかで)たちあがる。セザンヌのタッチは、例えば空のような連続的な大きな広がりを描く時でも不連続で、一つ一つのタッチへと目をずらしてゆく度にブランクを通過し、その位相がわずかにズレつづける。連続的であるはずのものが不連続であるから、それを見る者はそれを統合しようとして、その不連続なもの同士の関係を読み取ろうとし、さらには、関係を創造しようとさえするだろう。そこで起こる脳の情報処理過程が、現実にはあり得ない、絵画独自の空間を生み出す。ブランクを飛び越えようとジャンプする時、その一瞬に何かが起こるのだ。だから描くということは、ここではブランクをモンタージュすることとなる。