●「引込線」と「Zoo Zoo Scene」を見逃してしまったことへの反省もあり、初心に還るためにブリジストン美術館へ行った。そこへ行けば必ず、多大な刺激と、身が引き締まるような緊張を得られる場所。恐ろしいセザンヌが待っている場所。聖地に巡礼して精神を引き締めたい。ふんどしを締め直してゆきたい。ところで、ふんどしを締め直すというのはとてもよい表現だと思う。ぼくの祖父は、普通に下着としてふんどしを着用していた。父も、三十代くらいまで、ブリーフではなくふんどしだった。ふんどしの上に、スーツを着たりするわけだ。だから、自分で着用したことはないものの、下着としてのふんどしがどういうものか割とよく知っている。ふんどしはすくに緩むのだ(「はだか祭り」とかに出てくる人がしてるみたいな、あまりにきつく引き締めるようなやつはハレの日のふんどしで、日常的な下着としては使えないと思う)。脇が甘くなり、すぐに横からぼろっと見えるようになってしまう。だからこそ、繰り返し、頻繁に締め直してやらないといけない。ぼくの精神はまるでふんどしのようだ。
ブリジストン美術館から、銀座の歩行者天国を歩いて、有楽町イトシアにあるシネカノン有楽町シアター2で『リミッツ・オブ・コントロール』(ジム・ジャームッシュ)を観る。終盤まではほんとうにすごい傑作だと思って観ていて、すごく興奮していたのだが、オチというか、収束点があんまりなので、そこで気持ちが一気にさめてしまう。そりゃないよ、と思う。もし、カフカの『城』の終末部分の原稿が発見されたとして、そこでそれまでの伏線がきれいに回収され、さらに、そこにあまりにもわかりやすいメッセージが浮かび上がってきたとしたら、多くの読者は白けてしまうのではないだろうか。勿論、カフカはそんなことが絶対ないように書いているのだが、ジャームッシュはそうではなかった。いや、ジャームッシュの主張は絶対的に正しいのだが、その正しさは作品を裏切るもので、作品としての正しさではない。この映画では何度か、「宇宙には中心もなく、端もない」というセリフが出てくるのだが、ジャームッシュはその収束部で、その言葉を自分自身で裏切って作品に中心をつくってしまっている。
オチがあんまりだからといって、そこに至るまでの持続、展開、緊張のすばらしさが消えてしまうわけではない。ジャームッシュはこの作品に至ってようやく、あの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の呪縛から逃れ得た。それも、過去の傑作を否定して別の場所に移動するのではなく、どこを切ってもジャームッシュの映画でしかありえないような映画なのにもかかわらず、その内側から、内在的に過去の作品を乗り越え、塗り替え、更新するような作品になっている、と、映画が終わる直前までは思っていた。どの細部もジャームッシュそのものなのに、映画の感触はまるでリンチのようだ、と。まさかジャームッシュがこんな形で自己を更新し、再生するとは思ってもみなかった。『パーマネント・バケーション』からの三十年近い作家としての持続の重さというのは、こういうことなのか、と。世界というのは何が起こるのか分からないし、作家というのは、芸術というのは、なんと偉大なものなのだろうか、とさえ思って感動していた。さらに、映画というものが、最初の百年を終え、確実に二つ目の世紀に入ったのだと、この作品によって証明される、とまで思った。しかしそれが、ビル・マーレイが出てきたとたん、すべて台無しに…。そんなにわかりやすいオチって…。この失望があまりに大きくて、それまでの充実が一気に消えてしまったかのように思えた。『リミッツ・オブ・コントロール』というタイトルさえ安っぽく思えてしまった。そんなありがちな「資本主義(アメリカ・資本家)批判」のために(その批判そのものは正しいにしても)、そこに着地させるために、そんなメッセージのために、今までのあの充実した細部の手触りが、繰り返しのようでいて先の読めない、ほとんど意味不明の(意味に頼ることのない)、淡々としながらも一時も緊張の緩むことのない、あのすばらしい展開があったというのか。なにかひどい裏切りを受けたようなダメージだけが後に残った。
正直、今は、裏切られたようなダメージで気持ちが動揺し、頭が混乱している。まさか「そこ」に着地するとは思ってもいなかったから。だから、途中の興奮と感動がとても大きかった分、収束部のつまらなさを過剰に感じ過ぎているのかもしれない。少し時間をおいて、気持ちの整理をつけ、あらためて覚悟を決めてから、もう一度観て、考えてみたい。