●huluでの配信が今日で終わってしまうというので、あわてて『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を観た。気づいたのが午後十時過ぎだったので---十二時には観られなくなってしまうので---本当にギリギリという感じで観られた(『ダウン・バイ・ロー』までは観られなかった)。
ストレンジャー・ザン・パラダイス』は、革命的な映画だといえて、ジム・ジャームッシュという映画作家はこの作品があってこそ存在しているといえるのだけど、今、この映画を観るとき、どうしても「懐かしさ」という感情と切り離して観ることができない(充分に面白いし、改めて、奇跡的に成立している映画だとは感じるのだが)。このことは、ゴダールの『勝手にしやがれ』を今観ると、ちょっとびっくりするくらい普通にみえてしまうのだけど、それは、われわれが普段から普通に観ている様々な映像に、ゴダールの影響がそれと分からないくらい自然に既に浸透してしまっているからだという事実と、少し似ている。これらの映画から、公開時にそれをリアルタイムで観たときと同等の衝撃や驚き、違和感といったものを感じることはできなくなっている。そのような意味で既に歴史的な作品というべきかもしれない。
●それにしても『パターソン』はすばらしかった。観てから数日たって、じわじわと、ジャームッシュの映画のなかで一番良いのではないかという気持ちが湧いてきている。
もし君がぼくの元を去ったら、ぼくは心をずたずたに引き裂いて、二度と元に戻さないだろう、とパターソンがノートに書きつける時、そこで呼びかけられる「君」とは、実際に彼の奥さんである女性であるというより(もちろん、そういう意味もあるが)、彼の書いている言葉たちであり、それが書き付けられたノートそのもののことであるだろう。これはわかりやすい「フラグ」でもあり、ノートはその後、実際にずたずたに切り裂かれてしまう。
これによってパターソンは、バーで会う、恋人を失った(ふられた)男と同等の深い悲劇のなかに陥ることになる。彼は実生活ではパートナーを失ってなどいないが、ヴァーチァルな次元でかけがえのない「君」を失う。このことでバーの男と同じ位置にたつのだ。パターソンにとってこれは自分を見失うほどに大きな危機であり、バーの男と同じように、とりみだして騒ぎを起こしてしまいかねないくらい彼は動揺している。しかし、それを実生活の次元でどう処理(あるいは表現)したらよいのか分からない。
そして、(アクチュアルな次元で)バーの男がパターソンにとりなされたのと同じく、(バーチャルな次元で)パターソンは永瀬正敏にとりなされることで、なんとか平静をとりもどすことができる。
ヴァーチャルな次元で「君」を失ったパターソンをとりなすことは、アクチュアルな次元での彼のパートナーである奥さんでは無理で、バーチャルな次元で彼と交流し得る、(大阪から来てたまたま出会った、見ず知らずの)詩を書く永瀬正敏でなければならない。実生活ではきわめて近く親しい位置にいる妻だが、バーチャルな次元では見ず知らずの永瀬正敏の方が「近く」にいるのだ。これは、彼が妻と十分に分かり合って(愛し合って)いないということではなく、愛の次元が異なっているということだ。
(パターソンの奥さんもまた、彼女独自の---モノクロームな----バーチャルな次元の生の流れがあり、パターソンは、それを受け入れてはいるが、その次元での彼女を深く理解しているというわけではないだろう。)
●『パターソン』では、アクチュアルな次元とバーチャルな次元は双子のように現れている。彼の奥さんの表現する白と黒の対や双子の夢、冒頭ちかくでブルドックが実物と絵との両方で示されているなど、いたるところにその徴候はある。そしてこの映画でバーチャルな次元での出来事が際立つのは、なにより、アクチュアルな次元の実生活の描写がすばらしいからだ。