●昨日の日記にも書いたが、『パターソン』(ジム・ジャームッシュ)で重要なのは、パターソンの二つの生の流れ(バスの運転手であり、妻と二人で暮らす生活と、詩を書くということ)が、絡み合いながらも、分離しているというところにある。
自分の住む土地と同じ名前である(つまりnobodyである)詩人にとって、詩を書くことは、生活からも、彼自身の内省からも自律している。発表を前提とせずに秘密のノートに書かれる詩はきわめて内密的であるが、その内密性は彼のプライベートな生活とは別にあり、書くことそのものが彼の別の生の流れを形づくる。
ナレーションによって語られる映画というものがあり(たとえば『アブラハム渓谷』や『そして僕は恋をする』)、登場人物が手紙を書くことが特徴的な映画があり(たとえば『アデルの恋の物語』や『エル・スール』)、あるいは、ゴダールの登場人物のようにノートに文字をやたらと書きつける映画がある。ナレーションのテキストは画面内の出来事に対してメタ的な位置にある。手紙は、画面内の人物と同時的であり、内容が極度に内省的であるが、「誰か」に宛てて書かれるテキストである。そして、ゴダールの映画でノートやいろいろな平面に書かれる文字はいわばハイパーテキストであり、デモンストレーションであるので、はじめから内密性をもっていない。
『パターソン』においてテキストは、それらの映画とはまったく異なる位置をもつ。パターソンの書く詩は、登場人物であるパターソンが現在書きつつある(考えつつある)ものであり、登場人物による事後的な語りではない。つまり、画面のなかでパターソンが今、歩いている、今、妻の肩に唇が触れている、のと同様に、その言葉は、今、書かれている(今、考えられている)。しかしそれは「手紙」とは異なり、誰かに向けられているものでもなく、生活の描写でもない。詩が、テーブルの上に置かれたマッチ箱から着想されたとしても、それはマッチ箱がテーブルの上に置かれている部屋に住む彼の生活を表現したものではなく、そこから、詩として独自の展開をみせ、それが独自の、もう一つの生の線をつくりだす。
一方に生活の流れがあり、もう一方に、詩が生成されていく流れがある。彼の生活が、誰かに見られるためにあるのではないのと同様に、匿名的な詩人である彼の書く詩もまた、誰かに読まれるためにあるのではない。二つの生は、一人の人物において並行的に生きられ、映画はそれを、並行的に示している。
生活のレベルで、彼は妻やブルドックと共に暮らし、職場の仲間や酒場で会う人物たちと関係する。一方、詩を書くというレベルでは、過去のさまざまな詩人たちと関係し、十歳くらいの少女や大阪から来た永瀬正敏と偶然出会って、そこに交流が発生する。
ここで、書くことはあきらかにヴァーチャルな次元にある。この映画において重要なのは、映像(+音声)とテキストとの関係ではなく、アクチュアルな次元での(開示的な)生活と、ヴァーチャルな次元での(内密的な)書くこととの関係であろう。これはとても特異的なことであり、このようなあり方の映画を、ぼくは他に思い出すことができない。
もちろんこれは映画だから、ここで描かれる「生活」もまたヴァーチャルなものだ。昨日も書いたが、こんな風な感じで生活している夫婦など実際にはこの世界に一組もいないとしても、ヴァーチャルな次元において、この生活は非常にリアルである。