●「引込線」って十月までやっていると思い込んでいた。23日で終わるのは名和晃平展だけだと思ってた。知ってたら締め切りを延ばしてもらってでも行っていたのに。ゴーギャンも終わってしまってる。中野成樹の野毛山動物公園の公演も、すでにすべて完売で、電話で問い合わせても、当日券も出ないし、キャンセルもないとのことだった。最近、こういうの多すぎる。目が外に向いてないっていうか、目が見えてないっていうか、余裕がないっていうか。いろんなことは24日の締め切りが過ぎてからと思っていて、締め切り過ぎたら、いろんなことは終わっていたり、間に合わなかったりだ。とりあえずカレンダーを買って(今頃?)、目立つ場所に貼っておくことからはじめたい。自分の部屋にカレンダーがないということを、これを書いている今、気づいたのだった。五連休でさえ、直前まで知らなかったのだ。
●いつも読んでるブログに、あるところで突然、前後の脈略とは関係なく、三鷹駅でぼくを見かけたと書いてあって、ちょっとドキッとした(視覚というのは、あまり脈絡のないものだが)。確かにその日は三鷹で編集者と打ち合わせしていたので、たぶん「それ」はぼくに間違いがないだろう。他人の視線を「見る」っていう感じ。たまたま自分が写りこんでしまった監視カメラの映像を、何日か経ってから、全然別の場所で、偶然見てしまった、というような。でもそれだと匿名のカメラの視線だけど、こちらは特定のある人物の視線だ。ぼくはその人のことを直接は知らないけど、その人のブログは割とよく読んでいるという程度には知っている。そういう人の視線に、自分が写り込んでしまった。写り込んでしまったというだけなら何ということもないが(というか、ぼくには分からないが)、それをぼくが後になってブログを読むことで知る。自分が見られていたその視線を、ぼくが(何日遅れかで)見る。でも、ぼくはその人のことを知らないから、その人を見返すのではなく、その人の視線だけを見る。そのブログには、「ホームで古谷利裕さんを見かけた」とだけ書いてあってそれ以上の描写はないので、その人が見たぼくの像を見るのではなく、やはりその人の視線(の存在)だけを見る。
●百均の店を何軒かまわってみるが、土鍋は売ってなかった。依然として、ご飯が食べられない。本屋をのぞいたら、岩波文庫から『子どもたち・曠野』(チェーホフ)が出ていた。すばらしい。買った。
●いつも行くのとは別の茶店で本を読んでいたら、後から店に入ってきて、隣にすわったおっさんが、コーヒーを注文して、スポーツ新聞を読んでいる、と見せかけつつ、新聞で隠して、自分で持ち込んだせんべいを食べていた。でも、隠していると思っているのは本人だけで、せんべいを囓るバリバリいう音が響いているし、醤油せんべいの醤油の匂いが辺りに漂っている。店員も、なんかあいつとかかわるとめんどくさそう、みたいな感じで遠巻きに見て黙認している感じ。テーブルの上にテーブルよりも広く新聞をひろげ、テーブルの下にせんべいの袋を隠し(しかしそれは自分の目から隠しているだけで、横からは丸見えなのだが)、手探りでせんべいの袋に手を突っ込み、一口サイズに割って、何気なく周囲をうかがっては、一気に口にほおりこみ、バリバリバリと音をたてて噛み砕き、いそいで飲み込む。手についた醤油を新聞の端で拭く。また周囲をうかがう。いや、もうそれだったらいっそ堂々と食えよ、と言いたかった。普通にちゃんとした身なりのおっさんなのだが。