ホックニーのジョイナー写真のつづき

●一昨日、ホックニーのジョイナー写真(とぼくの作品との関連)について書いた時、ウェブ上で画像が見つけられなかったのだけど、メールでその在処を教えて下さった方がいたので、リンクしておく。(http://www.joshibi.ac.jp/nf/artsactivities/jam/collection.html)。これは女子美ミュージアムのサイトで、DIGITAL ARCHIVESでは、さらに作品を詳細に見られるようになっている。
ジョイナー写真とキュービズムとの類似については、当時から随分と言われていたと記憶している。リンク先にある作品『クロスワード・パネル』でも、人物の部分だけを切り取って見れば、確かにキュービズムっぽいように思える。しかしキュービズムとの最も大きな違いはフレームのあり方で、キュービズムの絵画の場合フレームは矩形か、あるいは矩形の四隅を空白とした楕円であるのだが(つまりフレームが先にあるだが)、ジョイナー写真においてフレームは、あくまで視線の動きによって事後的に生まれるものとしてある。(ジョイナー写真において、フレームが事前に前提にされなくても済むのは、それを構成している単位が一つの独立したショットであり、複数の独立したショットの積み重ね(繋ぎ合わせ)として、全体の空間が構成されているからだ。しかも、それを見る時、映画のように線的な時間に、つまり時間的順序に、拘束されない。)『クロスワード・パネル』では、視線の関心は二人の人物に集中しており、対して、画面の下半分の中央部分は、ごっそりと死角になっている。つまりそこには目がいかなかった(興味がなかった)のだということが、そのままフレームに反映している。しかし、画面の下の方(空間的には手前)には、写真を撮っている(対象を見ている)ホックニー自身の左手が(二つ)写っていて、その手から二人の人物まで伸びる空間が、ほんの数枚のショットによって繋がれている。つまりこの机の上の部分は、詳しくは見られていないのだが、空間の連続性を意識出来る程度には、視線が動いているのだ。(観者も、その部分が欠落していても空間の連続性は感じられる。つまり、人間の視覚による空間の構成は、この程度の視線の動きがあれば、見落としがあっても滑らかに繋がる。)あと、画面左上(左奥)に、ほんの3枚のショットによって窓の外の風景が示されている。(この場での)ホックニーにとって、窓の外への関心はたった3ショット程度のものなのだが、そのちょっとした窓の外への「意識」(視線の動き)があるだけで、この画面全体の空間の広がりがずっと豊かになる。
時間的にも幅を持ち、像としてもズレているいくつもの「見たもの(ショット)」の張り合わせが、アラベスク模様のように拡散せず、一つの纏まりのある三次元的な空間の表象として束ねられてたちあがるのは、われわれが住んでいるのが三次元的な空間であり、だから雑多な「見たもの」を(或る程度)自動的に三次元的な空間へと変換するプログラムがあらかじめ脳に設定されているからだろう。しかし同時に、それらはやはりバラバラな映像(紙片)の寄せ集めにしか過ぎないことを「目」は見ているし、その感触は「見ている」限り消えはしない。
クロスワード・パネル』でもそうなのだが、たんなる視覚的空間の再現というのではなく、ホックニーのジョイナー写真の「作品」としての魅力は、何といってもそこに流れるプライベートで親密な空気だろうと思う。それは、彼の、非常に繊細な線描で描かれた、愛人や友人などのポートレートの作品と、基本的にはかわらないと思う。ぼくはホックニーを偉大な画家だとは思わないが、しかしとても良い画家だと思っていて、彼の色彩の表現はイラストレーション的なのだが、線によって描かれるポートレートは、きわめて注意深くデリケートにコントロールされた線で描かれながらも、ある「親しい」関係のなかでしか生まれないようなリラックスした雰囲気が生み出されていて、とても好きなのだった。しかし、ジョイナー写真以降のホックニーは、いきなり「空間」に目覚めてしまったのか、キュービズム風のパノラマ(と言うか、パースの狂った建築物の展開図)みたいな絵を、ちょっと良く理解できないような色感で描くようになる。残念ながらぼくには、このような作品からは、ホックニー的な、繊細さも、親密でリラックスした空気も、感じることが出来ない。