●例えば、A、B、C、D、と配置された物が目の前にある時、目は、その配置を一挙に捉えるのではない。視線は、A→D→B→Cと動くかもしれないし、D→C→B→Aと動くかもしれない。あるいは、「AB」の関係をまず掴み、その後「CD」の関係を掴んで、そこから「ABCD」という配置を認識するかもしれない。そこで掴まれた関係-配置はある一つの視覚的空間を浮上させる。その視覚的空間は、視線が捉える「物」を捉える順番によって異なるあらわれかたをするだろう。だから、それを見直すたびに、すこしずつ異なった空間があられることもある。ABCの関係が、まず一つの視覚的空間として掴まれた後に、BCDの関係がまた別の空間として掴まれ、同一の細部を含んだ、二つの異質な空間-文脈として「ABCD」が掴まれるということもあるかもしれない。
●それでも、視覚が一挙的に空間を掴むという実感があるのは、視線の動きそのものや、それによって得られる視覚的データそのものが、必ずしも意識される(意識に浮上する)わけではないからだと思われる。視線はA→D→B→Cと動いているのだが、そのことは特に意識されず、しかし、そのA→D→B→Cと動いた視線によって得られた視覚的なデータが、頭のなかで蓄積され、構成され、その結果、ある一つの空間「ABCD」といういう関係-イメージが「いきなり」生まれる。つまり、データの収集(知覚)は継起的に行われるが、それによってあらわれる「イメージ」は一挙的にあらわれる。しかし、その一挙的にあらわれる「イメージ」には、無意識のうちに選択された「A→D→B→C」という時間-順序が隠されて刻み込まれている。
●現実のなかにある視覚において、一度掴まれた「ABCD」という配置は、そこで確定される訳ではない。「ABCD」という配置のフレームは、今まで気づかなかった「E」が目に入ることで棄却され、「BCDE」というフレーム-文脈こそがその場では適当であった、という判断へと移行するかもしれない。目の前にいる人が自分に向かって手を振っているので、記憶が曖昧なままあれはきっとXだろうと判断して手を振り返すと、実はまったく知らない人で、自分の後ろに居る人に向かって手を振っていたのだと分かる、ということもある。「写真」が「実物」よりもずっと「見易い」と感じられるのは、画像が静止しているということも勿論だが、フレームが確定しているから、ということが大きいと思われる。そこでは「ABCD」という配置はとりあえず固定されており、いきなり「E」があらわれて文脈を混乱させることはない。
●フリードが批判する「演劇性」というのも、このことに関わるのではないか。つまり、美術作品は、あくまで「ABCD」という固定した(閉じられた)フレームのなかで、「A→D→C→B」「B→D→A→C」「B→A→D→C」「C→A→D→B」等々の、複雑なイメージの折り重ねとして成立していなければならず、そのことによって無限のひろがり(恩寵)を得るのであって(それは、百通りの見方を実際にやってみて、百通りのイメージが畳み込まれていると知る、というより、三、四通りの見方をやっているうちに、その背後に無数のイメージのざわめきが厚みとして予感される、という形で認識されるだろう)、「ABCD」だと思っていたものにいきなり(継起的に)「E」が加わることで「BCDE」というフレームに移行する、というような多様性では駄目だ、と。それでは「作品」というフレームか成立せず、後だしジャンケンのようにだだ洩れで、「現実」と同じということになってしまう、と。
(美術作品では、物としての作品が含み持つ空間がフレームとなるが、演劇では、上演時間という時間がフレームとなるだろう。)
●文章には順番があり、はじめがあって、中間があって、終わりがある。それは、「ABCD」という配置を結果として表現するためには、「A→D→C→B」「B→D→A→C」「B→A→D→C」「C→A→D→B」等々のいつくもの順番があるが、そのうちの「一つ」しか選択できないということだ。つまり、視覚的な作品を見ることと、文章を読むことでは、逆の側から出発して、逆向きに進むという違いがある。風景が描写される時、そこでは「ABCD」という空間的な配置が読者に知らされるというより、その「ABCD」という空間的配置が、その時には「B→D→A→C」という順番で把握されたのだ、ということこそが示され、刻まれている。ここでは、視覚的な把握においてはほぼ無意識に近いところで行われていたことこそが、意識化され、表に出てきているのではないか。そこでは、「ABCD」というフレームはあらかじめ与えられているわけではなく、まず「B」が与えられ、ついで「B→D」となり、それが「B→D→A」となって、さらに「B→D→A→C」が与えられるという引き延ばされた時間の後で、頭のなかであらためて「ABCD」という関係-フレームへと認識-構成し直される。最初に「B」が示される時、それは未だ「ABCD」というフレームをもたず、どこへ着地するか分からない、不安で、かつ開かれた予感とともにある、得体が知れないとともに期待に満ちた、そのようなものとしての「B」としてあらわれる。そしてそれが、いきなり「D」へと接続されることのショックが生まれる。その、不安と期待、ショックの感触こそが読み取られるべきものであって、それを事後的に要約(形式化)して、つまりは「ABCD」ということでしょ、と言ってみても、その時にはほとんどの意味が失われてしまっている。
●とはいえ、その「ABCD」という配置-関係を「一つのイメージ」として成り立たせている、その下地としてある、可視化されないマトリクスのようなものは、(感覚的経験ではなく)事後的な形式的遡行によってしか見出せない、ということも言える。しかしそれは、「要約」という操作を得ることなく、直接「作品」のもつ振動そのものに寄り添い、そこから掴み出されなければならないだろう。つまりそれは、感覚化される以前に留まるものでありつつも、作品経験のなかで、何かしらの形で感知されていなければならないだろう。