●お金がないと、都心がどんどん遠くなる。例えば、気軽に新幹線に乗れるだけの経済力があれば、東京-大阪や東京-宮城なども、たいした距離ではないはずなのだが、中央線に乗るだけのお金もあやしいと、八王子-新宿どころか、八王子-吉祥寺の距離すら、はてしなく遠く感じられてくる。観たいものがあり、運良く招待券などをいただけたとしても、じゃあ往復の交通費をどうやって捻出するのか、という問題が浮上してくることになる。電気料金は二ヶ月滞納すると電気を止めるぞという脅しが届くことになっていて、つまり今月は、一番光熱費のかかる二月分の電気料金が重くのしかかっているのだった。いや、結局なんとかするんだけど、納豆ご飯やシャケご飯ばかりがつづくと、目に見えて体調が悪くなってくる。せめて野菜ジュースはつけたい。
そんななかでも、竹橋(近美)のヴィデオ展と上野(東博)の阿修羅展は何としても観たい。出来ればM0Tの池田亮二も。とはいえ、竹橋も東博も、ちゃんと観るにはまる一日かかりそうだから(東博は一日じゃ足りない)、一日で何カ所もまわるということは出来ない。何度も出かける分、交通費が割り増しになる。さらに、連休明けには、なびす画廊で利部志穂展をやるみたいで(http://www.nabis-g.com/kikaku/k2009/kagabu-s.html)、これは絶対に見逃せない。ぼくにとって、今、利部志穂以上に面白い美術作家は他には見当たらない、というくらい面白い。ここ(http://www.nabis-g.com/exhibition/2007/kagabu-s.html)や、ここ(http://www.nabis-g.com/kikaku/k2008/kagabu-s.html)の、一番下にある写真で見られる作品の面白さは、写真ではなかなか伝わらないと思うけど、ぼくにとって衝撃的なものだった。というか、「衝撃」という派手な言葉は、これらの作品の質感にはそぐわないものなのだが。細部と細部との連結の意外さと、それらの集積として立ち上がっている空間全体の分節のあり様との関係が、ぼくが今まで知っているインスタレーションや彫刻などのそれとはまったく異なっているという感じなのだ。そしてそれが「笑える」感じなのだ。その感じはちょっと、磯崎憲一郎の小説の、文と文との間にある断絶や飛躍と、それらによって形作られる小説全体としての流れとの関係に、感覚として似ている(細部の感触は全然違うのだが)。「美術ってこんなに面白いものだったんだ!」というわくわくする感じがこみあげてくる。
●久しぶりに、散歩で川沿いの方へ行ってみたら、河川敷のところが、黄色い小さな花をつけた植物で埋め尽くされていた。まるで、観光地などで見栄えをよくするために人工的に同じ花を植えたかのように、本来様々な雑草が生えているはずのところが、ほぼ黄色い花一色になっていた。それも、短い区間だけではなく、歩いても、歩いても、(別の川と合流して、広い流れになるところまで)ずっとその黄色い花一色がつづくのだった。この川沿いを散歩しはじめて二十年にはなるのだが、こんな光景は今までに見たことがない。
普段は水量の少ない川で、冬の間など川とは言えないようなちょろちょろという細い一筋の流れになってしまう川なのだが、去年、何日か降り続いた雨の後、すごく増水した事があって、その時に、河川敷の雑草などがいったん全部流れにもっていかれた。河川敷には、勝手に畑をつくって野菜を栽培していた所もあったのだが、そんな畑も跡形もなく流されていた。その時にいったん全部流されたことによって、河川敷の雑草の勢力が大きく変化したのだろうか。