●万リー「舌打ちしっこの左膝のお母さん」(「文學界」5月号)。これは一体何?、とひるんでしまうような、面白くてかつ気持ちの悪い小説。自分の身体や異性の身体に対する感覚というか接触感のようなものが、ぼくなどにはちょっと想像も出来ないような感じで描かれている。だいたいタイトルからして、「舌打ちしっこ」って何のことだか分からないし、「左膝のお母さん」というのも、分かるようでいて分からない。読み始めればすぐに、「舌打ちしっこ」が何のことで、「左膝のお母さん」が何のことだかはすぐ分かるのだが、それが分かったからといって、この小説について何かが分かるというわけでもない。それが分かることで増々分からなくなるというか。
「舌打ちしっこ」の「しっこ」とは「おしっこ」のことで、母親の癖である「ちっちっちっ」という舌打ちが主人公の「体の隅々まで」「行き渡って」「おしっこやうんちにも少しずつ出始め」る。「我慢しすぎてあわててトイレへ行くとちっちっちっもあわてて早口でちっちっちっとやる」。それで「私」には「舌打ちしっこ」というあだ名がつく。「左膝のお母さん」とは、その「私」の左足の膝にできたガングリオンの皺が人の顔のように見えて、それが「お母さん」に似ているということ。そのうちそれは小さなカボチャくらいにまで大きくなり、似ているだけでなく、「ちっちっちっ」と舌打ちもしだすし、喋りだすようにさえなる。「お母さん」には、その「ガングリオン母さん」のことは知らせていないが、「あたし」とラブラブで「あたしの体については凄く執着」している「まあくん」は当然気づいている。このあたりまで読んでも、この「私」だったり「あたし」だったりする主人公についての説明はほとんどなされていないので、どういう人がこれを語っているのかが明確には掴めない。「学校」という言葉が出て来るのでどうやら学生らしいということは分かるのだが、しかし、いきなり、母親の舌打ちする癖が「おしっこ(つまり女性器)」に転移するという非現実的な展開をみせるこの小説が、どの程度(いわゆる常識的な意味で)現実的な確からしさに則って書かれていて、どの程度そこから飛躍しているのかという、何と言うのか「基本的なトーン」のようなものが掴めない。何の前提も言い訳もなく唐突に書かれ、あたかも当然のように断定される言葉を、とりあえず一つ一つ受け入れながら次に進んで行く。世界は、あらかじめ予測される地平を形作ることのないまま、次々と加算され、加算されるごとに微妙に揺れ動く。
主に、母親との関係が描かれるのかと予想された冒頭から一転して、泊まりがけで大阪にゆく母の留守に、「あたし」の家で「まあくん」と「腰が抜けるほど」セックスするという場面がつづくことになる。この場面で描かれる、異性の身体への異様な近さ、親しさ(密着感)と、しかしその近さのなかでぶつぶつと泡のように浮上してくる距離感-違和感とが行き来する描写には、独自の質感があり、とてもリアリティがあるように思う。いつもは、学校の「来賓用のトイレ」や「おばさん」が頻繁に様子を見に来る「まあくんの部屋」でセックスする二人は、「全部脱げる程気は許せない」ので、セックスするときに「裸になったことがない」。だから「まあくん」は「学校も休んで一日中裸でいようぜ」と言ってやってくる。それまで、自分の身体について自分で語る、という記述だったものが、自分の身体を見たり、何かいろいろやってきたりするくる「まあくん」の身体を通じて、自分の身体を捉え直す感じも出て来る。「まあくん」が「あたし」のからだにフェルトペンで男性器や女性器を描くのに対し、「あたし」は寝ている「まあくん」のお腹に、机の上に置いてあるものを写生する、というのが妙に面白かった。「まあくん」が寝てしまった後、いきなり勉強をはじめたりするのも。あと、この小説は「ガムテープ小説」と言ってもいいんじゃないかと思うほど、ガムテープの使い方が面白い。
「あたし」と「まあくん」の裸の身体的な密着が強まるなか、「あたし」の身体に出来たガングリオンたちは、「あたし」にはどうすることも出来ない程に、増々勝手に増殖し、進化しはじめる。それはもはや、たんに「母親」の転移(母と娘の関係の表象)というだけでは済まないものにまでなる。そして、その勝手に進化するガングリオンへの態度の違いによって、「あたし」と「まあくん」の間に看過できない距離も生じてしまう。
ぼくはここまで、結局「あらすじ」を追っているだけなのだが、そうするより他にどうしたらよいのか分からないような不思議な小説なのだった。この後、「まあくん」が帰ってしまってからの展開もとても面白い。いわゆる「文学的」に分かり易い落としどころに今にも納まりそうな気配はいたる所にあるのだが、しかし、納まりそうで納まりきらず、常に何かが足りない感じのまま、変な方向にズレてゆくのだ。しかも、それはたんに「ズラす」ことが自己目的化されているのではなく、その「ズレてしまう」というところに、この小説に独自の質感があるように思う(文学的に分かり易い主題もまた、この小説の重要な要素の一つであることは間違いがないと思う。ただ、「それだけ」に収斂してしまわない、同時にそれとは「別の運動」も捉えられている、ということ)。そして結局、どこにも着地しないまま、何も解決してないじゃん、というところで、唐突に終る。唐突にはじまって、唐突に終る。読者の手元には、それを通過する過程で味わった、奇妙な質感だけが、捉えどころのないまま、ぼわっと、しかし強く、残される。