●何かが動いている時、あるいは、何かが今、生まれようとしている時、その過程-行為のただ中に居る者は、その途中でそれを外側から捉えようとしてはいけない。内側にいることの盲目によってしか、何かを動かし、何かを生むことは出来ない。これは決して大それたことではない。絵を描いていて、あるタッチから次のタッチへと移行する時に、下がって(絵から距離をとって)前のタッチを確認してよい(あるいは、確認すべき)時と、してはいけない時とがある。あるいは、一息で引かれなければならない線がある。ある動きのなかにいるという予感が生じた時は、あくまでその予感の内側に留まるべきで、途中で結果を確認してはいけないのだ。この違いを感知できなければ、絵はうまくいかない。
あるいは、その日の作業を、そこでやめてもよい地点と、そこでやめてはいけない地点とがある。あるいは、制作途中の作品を、他人に見せてもよい地点と、見せては駄目な地点がある。だからそれは「区切り」の問題でもある。何かに区切りをつけるような行為は、そこでいったん小さな仮のフレームを囲うことになり、行為者はいったんその行為の内側から外に出ることになる。区切るという行為は、そこから遡行的に、それ以前になされた行為の意味を固定させる作用があり、一度区切られ、いったん仮のフレーム内での固定した位置(意味)を得たものたちはいわば仮死状態に置かれるので、それを再び流動的で宙吊りにされた「生きた」状態へ戻すためには、小さく仮のものではあったとしても強く作用してしまうフレームを壊すだけの、強いショックを画面に与えてやらなければならない。しかし、いったん仮死状態にしてやらなければ、今までの行為についての反省的判断を下すことが出来ない。
何かが動いているただなかにいる時にも、当然、判断は刻々となされているはずで、その内在的なレベルでの判断の精度こそが実作者の「腕」であり、それこそがそこで生まれるものの質を決定するはずだ。そしてその時には、その「判断」に対する「判断(メタレベルの判断)」は禁欲されていなければならない。何かが生まれるのは、内在的な判断によってであって、決して、外側からの、事前にある、メタレベルでの判断によってではない。ある動きを感じたら、その動きの終点までは盲目的にそれに従ってゆくしかない(とはいえ、動きの途中で、メタレベルの判断を介在させないまま訪れる「これはちょっと違うかも」「なんか面白くない」というもう一つ別の内在的な判断-予感が生まれることもある)。
勿論、制作の時間には「区切り」も含まれており、行為が区切られる度に、「判断に対する判断」は作動する。メタレベルの判断は、「区切る」という行為の効果として生まれるものだ。区切られる度に仮のフレームが設定され、しかしそれはまた壊される。何度も、中に入ったり、外に出たりする。その繰り返しのなかで、行為の行き先は探られてゆく。
●例えば、散歩の途中である風景をカメラに納めるとする。歩いていて、ふと目にとまった風景に魅せられて立ち止まり、ポケットからカメラを取り出し、構えて、フレームを調整し、シャッターを切る。ここまでの一連の動作は、散歩という行為の流れのなかに内在していると言っていいと思う。写真を撮るために立ち止まるというのは、確かにひとつの区切りをつける行為とも言えるが、しかしそれは、向こうから車が来たから立ち止まるとか、信号が赤だから立ち止まるとか、人に道を尋ねられて立ち止まる、というのとあまりかわらない。しかし、カメラがデジカメである場合、録った写真をその場でモニターで確認するということが可能になる。陽射しが強いとモニターがよく見えないので、日陰を探して、そこで、今撮ったものを確認するという時、散歩するという行為の内在的な時間から、ふっと外に出てしまったような感じになる。その時、同じところにいながら、まったく別の時間、場所へと移動している。
この「外に出る」行為は、それ自体面白いとも言えるが、しかし、やり過ぎると散歩の時間を台無しにする危険もある。それは制作と同じ。