●当たり前のことだが、映画の上映時間は一生より短い。もし、一生と同じ長さの映画があるとすれば、それを観る人にとって、映画そのものがそのまま現実の生となる。上映時間が一生よりは短いからこそ、映画というフレームを現実から切り離し、その外側から、それを「映画」として観ることが出来る。切り離すことが出来るからこそ、それを一生、自らの傍らに置いておくことも出来るようになる。
あるいは、模型は原寸より小さいことが重要だ。原寸より小さいからこそ、その空間から切り離された、その外に立つ者として、その空間を所有するかのような感覚が得られる。記憶や幻想の外在化であるジオラマは原寸より小さくなければならない。では、江戸川乱歩のパノラマ島のようなもの、あるいはハウステンボスのようなものはどうか。テーマパークのような場所は、空間的な区切りと、その内部にいる時間の区切りとによって、現実から切り離されてる。任意に、その中に入ったり、出たり出来る。
フィクションは、時間的、空間的なスケールの小ささによって現実と区別される。逆にいえば、時間的、空間的なフレームの淵がはっきりしないフィクション、そこに任意に出たり入ったり出来ないフィクションは、現実と呼んでも差し支えないものとなる。一生つづく映画、出口のないパノラマ島は現実である。あるいは、現実との区別が失調したフィクションである。フィクションと現実との違いは、その(時間的、空間的な)サイズの違いのことだ。
だから要するにそれはフレームの問題だろう。人は、出口のない(フレームのはっきりしない)フィクションをつくりつづけ、つくり直しつづけ、その中で生きる。しかしそれは巨大であるから、サイズの小さいものよりも思うようにはならない。しかも、それはもしかすると、一生よりも短いスケールしか持たないかもしれないが(途中で破綻してしまうかも知れないが)、フレームの淵が見えず、任意に出入り出来なければ、そこに拘束され、今、その中にいるフィクションを現実とするしかない。
フレーミングされるフィクションのサイズの小ささの重要性がここで現れるなのではないか。それは現実からこぼれ落ち、現実から逃れ去る、別の道を示す。あらゆることが関係し合い、影響しあい、あらゆることが変化つづけ、流れ去る現実のなかで、そこから区切られることで、ある独立性、持続性をもつ。映画が一生と同じサイズになると、現実となった映画は映画であることを失い、人はそこに絶対的に拘束されるが、一生より小さなサイズであることによって、そこから切り離され、傍らにずっと置いておくことも出来る。一生、その人の傍らにありつづけられた映画は、現実より強い力をもつものとして、よりリアルに生きられるかもしれない。あるいは、自由に出入り出来ない、そのただ中にいるフィクション−現実を、別の方向へと動かして、つくり直してゆくときの、導きのしるしとなるかもしれない。
だが実は、世界そのものには時間的にも空間的にも果てがない(フレームがはっきり確定できない)以上、サイズの大小、フレームの内外は絶対的なものではなく相対的なものであり、そしてそれは反転されるかもしれない。例えば夢。1日に八時間寝るとしても、夢を見ている時間は1日(二十四時間)より短い。つまり、映画と同様、夢は一生よりも短く、一生の時間の内部にある。しかし、夢には正確な上映時間がなく、その淵(フレーム)もしっかりとは確定できない。夢の時間は計測できない。だから、一晩の夢が一生よりも長く、人の現実の一生が、一晩の夢の内部に梱包されてしまうということもあるかもしれない。