●21日のトークイベント(http://www.archi-pelago.net/exhibition/exhibition_next.html)の打ち合わせというか、顔合わせとして、川部良太さんに地元まで来ていただいて、話をした。撮影にまつわる面白いエピソードなどが色々聞けて、これならトークもネタに困ることはないだろう、なんとかなるだろう、と思っていたら、川部さんから、「でも、こういう話をしたいんじゃないんです、作品を観て、それがどう見えたかという話をちゃんとしたい」と釘をさされ、それはまったくもっともなことで、自分の安易さを反省させられた。
●川部さんの『家族のいる景色』という作品は、母親が突然失踪した家族の話を、川部さん本人とその実際の家族(父と祖母)や友人たちが演じ、川部さんが暮らしている家や地元を舞台として撮られたもので、それを観ていると自然にその作品が何かしらの形で川部さんの自伝的な要素を反映しているように思えるのだけど、しかし実際に川部さんの母親は失踪などしてなくて「そこ」にいて、それどころか、家のなかで川部さんと父親とが話している場面のいくつかは、母親がカメラを回してさえいるということだった。川部さんとお父さんとが、家族のアルバムを見ていて、川部さんが「この写真、なんで母さんが写ってないの」と聞くと、お父さんが「ああ、それ母さんが撮ってんだよ」とこたえる場面があるのだが、その場面自体を実は「母さんが撮っている」と。これは撮影上の1エピソードに過ぎないと言えばそれまでなのだが、ここには、川部さんの作品のとても重要な部分があらわれてもいると思う。
この場面で、川部さんとお父さんとが言っている「母さん」は、フィクションの次元にいる失踪した母さんで、その場面のカメラを回しているのは現実の母さんなのだから次元が違うとも言えるのだが、しかしそれは、この場面がこの映画のフィクションの文脈上に置かれるからそうなのであって、ただその場面だけを見るならば、そのアルバムも、母さんによって撮られた母さんが写っていない写真も、そしてその家族関係そのものも、そのまま現実のものでもある。その場面に母さんが写っていないのは「母さんが撮ってる」からだというのは、まさに現実的にそうなのであって、しかし同時に、この映画で成立しているフィクションとしては、フレーム内部での母の不在は別に意味をもつ。この場面-映像での母の不在は、フィクションの次元(母は失踪した)と、現実の次元(母が撮っている)との両方で、同時に「真」として成り立っている。「母さんが撮ってんだよ」の一言は、その両方の次元を刺し貫く。フィクションとして演じられる家族があり、演じることを通じて、現実の(自分の)家族が撮影される。ここではもはや、フィクションの次元と現実の次元をくっきりと区分けすることは出来ない。区分けすることの出来ない、現実でもフィクションでもない(そのどちらにも根拠を置かない)新たな次元として「映画」があらわれる。
●川部さんの、現在は頓挫してしまっているという新作の話を聞くと(それについて書いていいのかどうか分からないので、具体的なことは書かないが)、川部さんが途方も無く困難なことを本気でやろうとしていることが窺われる。それは、映画の、作品としての構造だけでなく、それを見せる空間の構造、そしてそれを見る身体(諸知覚の編成)、さらに、それを作る-見る人たちの関係性の再編成までをも射程にいれたもので、しかしそれは映像インスタレーションのようなものではなく、あくまで映画であるという指向性ももっているようだ。川部さんの話を聞いて、ぼくは、うーん、むつかしいよね、という間抜けなことしか言えなかった。しかし、困難なことを、功利主義的な動機とは無関係に、本気でやろうとしている人が実際にいるということだけで、こちらもとても勇気づけられるのだった。