●『果てなき路』(モンテ・ヘルマン)をDVDで。これは面白い。二回つづけて観た。「すげえ」と前のめりになる感じではなく、穏やかにじわじわ面白い。そのじわじわが広がってすごいことになる。たくらみに満ちていて、しかし柔軟で瑞々しく、そして余裕がある、という感じ。話のこまかい辻褄は、一回観ただけでは分からないようにはじめから出来ていると思ったので、一回目は「分かろう」とがっついて観る必要もなく、ただ、いろいろと罠をちりばめているなあという、そのたくらみや仕掛けの感触を味わう感じ。二回目で、だいたい辻褄が見えたというか、ほぼすべてのカットの意味(というか意図的なあいまいさも含めたそれぞれの配置)が汲み取れたと思う(ただ、一つだけよく分からないカットがあった)。
●映画は次のように始まる。DVDをケースから出してパソコンにセットする(毛深いのでたぶんの男の)手を示すカットと、金髪の女性のバストショットとがつなげられるのだけど、この二つのショットの関係がここまでではよくわからない。よくわからないままカットがいくつか重ねられ、男の手がパソコンの向きを変えるカットにつづいて、女性の顔にパソコンのモニターのものであると思われる微かな光がすっと射すカットがあって、ようやくこの二種類のカットの空間的な関係が分かる。男が女にパソコンの画面を見せようとするというだけの仕草(ここではまだ男の顔は映らない)が、これだけ遠回りでもったいぶったやり方で示されることによって、冒頭からあるたくらみの気配が、ゆったりと漂うことになる。
画面を覗き込む女性のカットがあって、それにつづいて、カメラはパソコンの画面にゆっくりズームアップしてゆく。そしてカメラのフレームとパソコン画面のフレームがぴったりと重なる。ベッドの上でマニキュアを塗っているらしい別の女性をやや引いた位置から捉えるカットだ。フレームが一致しても、ここではカメラと対象との距離感によって、この映像が「パソコンのディスプレイ上に表示されていて金髪女性によって見られている映像である」ことの匂いがまだ残されている。しかし次にカメラが女性にふっと近づき、ベッドの上の女性が自分の顔にドライヤーの風を当てているカット(すごくいいカットだ)にかわると、「ディスプレイ上の映像」という間接性がすっと消失して、その映像が直接提示されているように感じる。間接性というカギカッコが外される。この呼吸が素晴らしいのだが、おそらくこの瞬間に、この映画は間接性の指標(階層的関係性)を見失って迷宮に入る。
実際、このあとにあからさまに混乱が仕掛けられる。このドライヤーのカットにつづいて、室内から窓を捉えたカット(自動車が庭に入ってくるのが見える)につづくのだが、つながりからすれば通常は、「この窓」はベッドの上の女性がいる部屋の窓であるように観客は受け取る。しかし、その後しばらく経ってからやっと「おやっ」と変であることに気づくのだが、この窓のカットは、全然別の場所(別の建物)、そして別の時間に属する窓なのだ。そしてその場面(それはパソコン上に映し出された「映画」なのだが)は、そこからしばらくは連続性があるように続く。
この時に何が起こるのかと言えば、それまでは普通に連続していると思われていた「ベッドの上でマニキュアを塗り、それをドライヤーが乾かす女」の場面が、この映画の時系列のどこに位置するのかが分からなくなるのだ。つまりこの場面が位置を失う。この場面は、これより前の場面とも、これより後の場面とも、どんな関係があるのか分からないやりかたでここに置かれている(それなりに映画が進行してようやく、「この部屋」がどこなのか分かるが、この時が「いつ」なのかははっきりしない)。しかし、カットの繋がりは一見自然だから、その不連続性をリアルタイムでは見逃してしまっていて、後から、そういえばあの場面は何だったのだろうか、と、遅れて気づくことになる。
全篇そんな感じで、自然に繋がっていると思っていたところが後から怪しくなり、繋がっていないと思っていたところが実は繋がっているらしいと気づいたりもする。しかしそれらの不連続性や連続性は、観ているその時にリアルタイムに気づくというより、後から、あれっと思って気づくようになっているのだ。あからさまに怪しい、あからさまに混乱しているというのではなく、その時はそれなりに納得していたり理解していると思っていたことが、後から怪しくなり、不安になり、流れが見失われることになる。いきなり混乱に陥れられるというのではないから、その余裕げでゆったりした流れを味わいつつ、ふと気づいたら迷路のなかにいることになる。そして二度目に観る時にようやく、それらのカットの関係が見えてくる。すると、その手つきの繊細さと周到さに、老練というか、モンテ・ヘルマンってほんとに食えないジジイだなと思うことになる。ここより先はネタバレしています。
●話の辻褄が分かってしまえば、これはとんでもない話なのだった。ある事件を映画化しようとして女優を探している監督が見つけたのが、まさに、その事件を偽装することによって(自殺を偽装して)世間から行方をくらましている、その役のモデルとなった当の人物本人であるということだ。しかも、オリジナルであるはずのその女が既に、死んだ娘の影武者(?)として黒幕的な人物から雇われた代役でもあった。本人であると同時にあらかじめ偽物でもあるのだ(本当の本物は映画のなかでは不在だ)。つまりこの女は、現実の事件として、そしてさらにそれを映画化したものの主演女優として、二度、ヴェルマという(他人の)役を演じることになる。
ただ、この映画の混乱はそこにだけあるのではない。実は二重化は主演の女優だけに起きているのではない。事件に絡んでいるあと二人の人物(タッシェンと警察官)もまた二重化(いや、三重化というべきか)されている。つまり、映画内映画としてのフィクションの部分と、映画内現実としての事件の部分とが、同じ俳優によって演じられている。映画のなかで「映画俳優」としてタッシェンを演じている俳優と、映画のなかでの「実在人物」としてタッシェンを演じている俳優が「同じ人物」なのだ。
ややこしいけど、例えば、「ジャイアント馬場物語」という伝記映画がつくられるとする。そしてその映画の物語のなかでも、「ジャイアント馬場物語」という映画が撮影されているという設定になっているとする。するとそこで、映画内で「実物のジャイアント馬場」を演じる俳優Aと、映画内で、「ジャイアント馬場を演じる俳優」を演じる俳優Bが必要となる。しかしこのAとBとを同じ俳優が演じるとしたら、映画内の現実と映画内の映画の区別がつかなくなってしまう。『果てなき路』ではそういうことが行われている。
二つのことを合わせて整理すると次のようになる。『アントニオ猪木物語』という映画があって、その映画の物語のなかでも「アントニオ猪木物語」が制作されているとする。そこで、映画内で「アントニオ猪木物語」の主役を探している監督が見つけ出した新人が、実は事情があって身を隠していたアントニオ猪木本人だったという「映画内の物語」がある(だがそのアントニオ猪木は偽物だったのだが…)。もう一方で、『アントニオ猪木物語』のなかで、実在する「ジャイアント馬場」役と、映画中映画のなかで「ジャイアント馬場を演じる俳優」役とを、同じ人物が演じる(そしてそのことに対する何の説明もない)という仕掛けがある。映画内現実と映画内映画とが同じ人物で描かれるという結果はどちら同じなのだが、「アントニオ猪木」と「ジャイアント馬場」とでは「同じ」であることのフィクション内での位置づけが異なる。この裏表であるような二つの出来事が『果てなき路』では同時に重なって起こってしまっていることで時空の歪みも複雑になる。ここにさらに、映画内映画「アントニオ猪木物語」つくっている監督と撮影現場と、実際に『アントニオ猪木物語』をつくっている監督とスタッフとが重なるというもう一つ別の(現実とフィクションの間のような)混乱も加わる。
●だが、偽装の自殺までして身を隠している女が。なぜわざわざ自分自身をモデルにした映画に女優として出演しようとするのか。一つには、この女がもともと女優であり、女優としての野心がどうしてもあるということもあるだろう。しかし重要なのはそれよりも、「この監督(この男)」と出会ってしまったから、ということだろう。つまり男が女に惹かれたように、女も男に惹かれた。だから女は、「この男」の夢(作品)のなかで、もう一度自分自身を生き直そうとするのだ。ここにもまた別の、フィクション(内)と現実(外)の反転がある。自分自身が起こした事件を、女優として(しかも女優として見事に開花しつつある過程で)再び演じ直しているこの女は、そこで一体何を感じているのだろうか(ということを考えてしまうような、すばらしいクローズアップがある)。様々な次元での現実とフィクションとの入れ子状態が重なり合って、すごいことになっている。
●ズレをともないつつも自分自身を反復するという意味で、この映画はループするタイムリープ物とも繋がる。例えば、反復するセスナ墜落のパターンが二通りあって微妙にズレている。『デジャヴ』(トニー・スコット)や『プライマー』(シェーン・カルース)なんかと近い感触があるのだ。
●ロブ=グリエと言ってしまうと、元も子もなくなってしまうけど…。
●これは映画をつくる話で、映画を撮るという行為と、映画によって語られる物語と、その物語がそもそもモデルとした実際の事件という三つの層が錯綜する。それだけでなく、そのような三つの層を語るための媒体もまた映画であるという二重性もある。「この映画」の実際のスタッフの多くが、映画内で作られている映画のスタッフとして映りこんでいるし(さすがに監督のモンテ・ヘルマンは映っていないようだけど)、そしてラストでは、物語内には存在しないはずの「現実にこの映画を撮影する人たち」の様子が登場人物である監督のカメラに撮影されてしまう)。このあたりのとても柔軟な混合はデジタル撮影の機動性によってもたらされたものだと思われる。
●さらに、この映画は「ローリー・バードに捧げる」という字幕までついている(ローリー・バードはモンテ・ヘルマンの伝説的作品『断絶』でヒロインを演じた女性、『コック・ファイター』にも出ている)。これはほとんど、この映画の物語上での監督と女優との関係を、『断絶』撮影時のモンテ・ヘルマンとローリー・バードとの関係と混同するように観客を(ミスリード?へと)導いているようではないか。
(あと、この映画の物語内の監督は恥ずかしいほどにベタなシネフィルで---フランス的ではなくアメリカ的シネフィルはこんな感じなのか?---いまどきこんなベタなシネフィルを「あえて」主役にすえるというのは、どの程度皮肉でどの程度ベタなのか…、この微妙なさじ加減もまた面白い。『ミツバチのささやき』をこんな風にベタに引用するのか、とか…。監督役の人はどこかで見たことあると思ったら『デス・ルーム』のモンテ・ヘルマン篇「スタンリーの恋人」でスタンリー・キューブリックの役をやっていた人だった。ここでも監督の役だ。)
●日付を間違えた。今日のこれは昨日の日記で、昨日のところにあるのが、今日の日記。