●「建築と日常」の別冊「窓の観察」に載っている「見えない」(柴崎友香)を読んだ。
http://kentikutonitijou.web.fc2.com/mado.html
●これは、作者名が書かれてなかったら柴崎友香の小説とは思わなかったかもしれないという妙な感じ。いや、書かれていることはこの作家の他の小説と大きく違っているわけではないけど、中心にいる人物がただ<住人>とだけ呼ばれていて、名前もなければ、最後まで性別もわからないということが違う。「書かれていること」はかわらないのに、それらが収斂されるというか、着地するための「場」としての人物が抽象的だというだけで、小説としての印象がずいぶん違ってくる。具体的な記述が、具体的であるままに着地点を失う感じ。小説と現実との関係性というのか、接触面がよく分からなくなる感じ。
この<住人>を、これまでのこの作家の多くの作品と同じように、東京または大阪周辺に住む、二十代後半から三十代前半くらいの女性だと想定して読んでもそのまま自然に通ると思うのだけど(名前がないだけでなく地名も「東大寺の盧舎那仏」と「社長が神戸からくる」という以外は出てこない、東南アジア、インド、中国など遠いところは出てくるけど)、それが性別もわからないただの<住人>と書かれ、読者にとって主人公がまさに「見えない」(像が与えられない)感じになっている。<住人>の周囲の世界は具体性と広がりとを持っているようなのに、<住人>の方に目を向けようとすると、そこには<住人>という文字(あるいは、そこにいる人物を<住人>と呼ぶような距離感)しかない。このもやっとした感じ。<住人>が見ているマンションは詳細に描かれる(とはいえその中は「見えない」のだけど)のに、<住人>の住んでいるアパートのことは、<住人>の部屋が二階にあるということ以外はほとんど描かれない、とか。あと、名前や性別がないだけでなく、冒頭の一ブロックが変な感じなのが主人公の「抽象化(掴みどころがない感)」にけっこう影響しているとも思う。
●それにしても、「性別がない」ということの抽象性というのはかなり強力だと思った。
●≪あの窓はもう二度と開かないだろう、と住人は確信した。しかし根拠もないし、先のことは誰にもわからないので、開くところを見たら住人は自分が見たものを信じるだろう。≫(「見えない」より)
これは何を言っているのか。「もし≪見たら≫、≪見たもの≫を信じる」、というのはたんなるトートロジーではないか。『ドリーマーズ』以降のこの作家の小説には、しばしば、このような文として「おかしい」としか言えない文が混じり込んでいる。
≪二度と開かないだろう≫という≪確信≫には何の根拠もない、いわば「思い込み」なのだが、その「思い込み」の強さは、≪開くところを見たら≫≪見たものを信じる≫だろう、という、「見る(見えてしまう)ことの明証性」と拮抗するくらいに強いものとして提示されている。最終的には、≪見たものを信じる≫だろうと、見ることの明証性が勝つことが予想されてはいるものの、そのためにはわざわざ、≪根拠もないし≫≪先のことは誰にもわからない≫という「言い訳」(これは他者に対する説明というよりは、発話者が発話者自身に言い聞かせているかのようだ)を間に挟む必要がある。つまりここでは逆説的に、「見ることの明証性」への疑問(不安)と、根拠のない「思い込み」への信頼の強さが表れてもいる(そしてその感触は、幼稚で狂気じみているとさえ言える)。
さらに注意深く読むと、ここでは、≪確信する≫主体である住人と、住人は≪見たものを信じるだろう≫とする発話者とがズレている。発話者は≪確信≫する住人を、結局は見たものを信じることになるはずだと、突き放してみているようでもある。つまりここでは、「見ることの明証性」と「思い込みの強さ」という二つの食い違う「世界への信仰」の形態(世界への通路)の拮抗・対立は、簡単に一方に解決するものではなく、語る主体を分裂させるまでの強さをもっているということだろう。
こういう「おかしい」文を、さらっとスルーしてしまっても小説を読むことは可能だけど、このような「おかしい」ところに立ち止って、この「おかしさ」をじっくり味わうことで、小説全体の印象もずいぶんかわってくるように思う。