●小説を書いた(一応完成できた)ということはぼくにとってとても大きなことで、何と言うか、そのことについての感情を吐き出さないではいられない感じなのだが、二月の間じゅうずっとそれを我慢していたので、ここでそれを抑えられない感じになってしまっていて、放っておくと楽屋裏話みたいなことばかり書いてしまいそうなので、ちょっと違うことを書く。
●『ビリジアン』(柴崎友香)は、作品としてはまったく似ていないと思うけど、ぼくが小説を書いている時、書いている自分の感触として「影響されているかも」と感じていた。この小説を読んでなかったら(連載の時点で読んでいた)、こういう風には書かなかった(書けなかった)かもしれない、という風に。ぼくは、こんなには自由には文を動かせないけど。『ビリジアン』は基本的に一人称なのだが、話者と主人公の関係がちょっとかわっている。
世界の外にいる(ここではおそらく過去を思い出している)メタレベルの話者と、その時間を生きているオブジェクトレベル視点人物がブレる(重なりつつズレる)のは一人称の基本だと思うけど、この二つの行き来の仕方(距離感の操作)が、乱暴に見えるくらい自由というか、語る私と語られる私という風に序列化=統合されずに、二人が同列でいて、それによって世界が二重化されている感じ。その時、例えば≪梅雨だから曇っていた≫(p58)と書かれると、このなんということもない文から、その時間を生きている主人公が受動的にそう認識しているという感じと、過去を思い出している話者が「思い出す(そのように書く)」ことで世界のあり様を能動的に確定(断言、宣言)しているという感じが、同時に前面に出てくる。つまり一人称のなかに常に二人いる、という感じ。世界を立ち上げている人とその世界のなかにいる人の双方が、一つの流れの文章のなかで互いに影響を与え合いつつも分離したままでごろっと居て、メビウスの輪のように連続しながらも裏表になっている感じ。すごく不思議な感じ。
実際、≪梅雨だから曇っていた≫というのは変な文で、梅雨だからと言って必ずしも曇っているわけではなく、むしろ≪梅雨だから雨だった≫の方が自然で、このやや無理な感じの接続が「強弁する」感じを生み、それによって語尾の≪た≫に、たんに認識の完了を示すだけではなく、そこに同時に、今、それを発話することで世界をそのようなものとして(強引に)確定させようとするその「意思」をみなぎらせる。それが、現在そのように「発話している人」の存在を前景化させ、状況のなかにいる人と発話によってそれを確定する人とを分離させるから、一人称のなかに二人いる、という感じになるのだと思う。
≪梅雨だから雨だった≫を含む、次に引用する文章は、つながりの強引さというか、語られる現在に対する語り手の時間的位置の移動の自在さに、船酔いのような「時酔い」を起こしてしまいそうにすら感じる。さらに例えば≪どこまでも空だけだった≫という客観的描写にしては強すぎる言い切りは、視点人物の持つ印象であると同時に、そのように言い切ることで世界をそのようなものとして定位させようという話者の意思の存在が感じられる。
≪重いドアを開けると、湿気がわたしを取り囲んだ。梅雨だから曇っていた。夏至のすぐあとだからまだ明るかった。屋上には人はまばらだった。何曜日だったかわからないけど、学校に行ったあとだった。ベンチの間を行ったり来たりしていた鳩が飛び立ったので見上げると、頭上の広い空間はどこまでも空だけだった。白い雲の厚さにはばらつきがあって、斑になった隙間から夕方の色をした日差しが透けているところがあった。そのときはまだ屋上の端に小さい観覧車があった。その向こうに架かる虹の写真を撮ったのは、その八年後だった。≫(「片目の男」)
●少し歩いた。風が冷たかったが、もう芯から冷える感じではない。メガネをかけて散歩すると、アスファルトのボツボツや、土の色や湿り気、畑に被せられている黒いビニールの質と皺、枯葉のガサガサ、トタンの錆のザラザラなどかいちいちうるさいくらいにくっきりと迫って見える。遠くの動くものが目に付くから猫をよく発見する。飛んでいるカラスがクチバシにくわえている「く」の字型に曲がった針金がはっきり見えた。