●必要があって、一番最近の芥川賞を受賞した小説(小山田浩子「穴」)を読んだのだけど、なんともどんよりとした気持ちになった。頭も体も不活性化してしまう感じ。確かに上手くできているとは思うけど、今更これなのか、という感じ。日常違和感系の典型というか、何気ない日常のなかにちょっとしたズレが生じ、そのズレが拡大したり増殖したりして、しかしそこは日常と非日常の混合の微妙なさじ加減をもって進行し、ある時点でワーッとなって盛り上がり、最後は何かのきっかけでそれが収束し、スパッと綺麗に、しかし微かな余韻を残して終わる。これはもうテンプレとさえ言える展開で(あと、このような半不条理系の小説の一人称の話者を、感情の起伏に乏しい、半ば上の空という感じの人物として設定するというのも、ありがちというか安全策すぎるように思える、話者がぼんやりしていれば日常/非日常の揺らぎと混合は割とたやすく成り立つ、「ぼんやり」のあり様をもっと尖らせたりするとまた感じが違ってくると思うけど)、勿論、典型的だとはいえ誰でもがそれを上手く書けるわけではなく、そのような意味では真面目で丁寧な仕事だとは思うのだけど、だからこそなおさら、(書く人にもそれを評価する人にも)「頭のなかの狭さ」というのを強く感じてしまった。すごく狭いところでなされる、すごく細かい技術のやり取りだけでできているように感じられてしまった。あるいは、この小説からは「冒険」とか「無茶する」みたいな感じが感じられなかったということもある。だから、上手いというより「安全策をとっている」という感じがしてしまう。もっと下らない、へたくそな、罵倒すべき作品だったら、「なんだこのバカは…」とカーッとなって(あるいは笑えて)、ここまでどんよりとはしなかったかもしれない。
(最後の方になって少し面白くなったのだけど、特に出だしの部分のどんより具合がすごかった。読むのがすごく辛かった。段取り以外の何ものでもない段取りがどこまでも続くように感じられて倦んでしまった。例えば職場での正規、非正規をめぐる話とかは、後に非現実的な世界へ離陸するための滑走路のようなものとして、読者にも近いちょっとナマな現実的要素を入れておこうという段取り的意味しかない細部としか思えなかった。でも、現代文学がそんなミエミエの計算で書かれていいのか、と思ってしまう。というか、たんに「書かれていること」それ自体が紋切り型でつまらない。もし、この小説が最後の三分の一だけで出来ていたら、つまり、出だし部分の「どんより」抜きにいきなり義兄が出てくる辺りから読み始められたならば、面白いと思えたのかもしれない。「義兄」の胡散臭さはとても面白かった。義兄が何故か≪日に何度も顔を洗う≫という細部とかはキレてると思った。)
(いや、そこまで極端なことを言わなくても、例えば、雨の日の引っ越しの場面からはじまったのなら、全然違ったかもしれないとも思う。とにかく、出だしの数ページが致命的につまらないとぼくは思う。その部分ですっかりどんよりしてしまって、それが最後まで尾を引いてしまったのかもしれない。)