⚫︎今、書いている小説が、原稿用紙にして十八枚分くらいまでいった。分量的には半分過ぎたくらいか。ここ五日で原稿用紙九枚分、というのは、ぼくにとって驚異的な進み方だ。だんだんテンションが上がってきた。小説を書いている時の興奮状態には、ちょっと他にはない独特のものがある(ということを思い出す)。
たとえば、絵を描いているときは、一日に二、三時間、せいぜい三、四時間、グッと集中してやって、それ以上はやらない。それ以上やっても意味のない作業をしているだけになる。だからぼくは、作業や仕込みに時間をかける、いわば工芸的に完成度の高い作品を作るのは苦手だ。ただ、そのような自分を変えようと、「作業」と「段取り」にすごく時間のかかる作品をあえて作ったのが八年前に「百年」で展示した作品だ。だが、作業時間はすごくかかったものの、「工芸的な完成度」という点では、それとはまったく無関係な(見かけとしては秒でできそうな)作品となってしまったが。
それに比べて、小説を書くことは、一日のすべての時間の中に入り込んできて、それ以外のことをすることを許さない感じがある。一日中、身体を小説を書くためだけのモードにしないと、一文字も書けない感じ。だから、(後から読み返したら全然ダメで全部ボツという可能性もないわけではないが)小説が進んだのは、この五日間、小説を書くこと以外(あと、夕方に自転車で海に行くこと以外)、ほんとに何もしていなかったからだ。一日中、PCの前に座っているわけではなく、ほとんどの時間は「書いて」いないのだが、書けるテンションになるための準備(だけ)をずっとしている感じ。
(実際に書き出してみないと、自分が何を書くのか自分でも見当がつかない、という感じで書いていく。)
しかし残念ながら、こういう日をずっと続けていたら生きていけない…。だから、生産的な仕事はできるだけAIにやってもらって、人間は、AIの生産物のおこぼれで生きつつ、特別に優れた人だけでなく、あらゆる人が、芸術活動、哲学活動、科学活動、宗教活動、スポーツ活動など、非生産的なことにひたすら生涯を費やすことができるようになる日が、一日も早くくればいいのにと思う。生産と政治の価値が(なくなることはないとしても)最小限で済むような社会が実現しないものだろうか。
(五十代の半ばを過ぎてもまだそんなことを言っていられるのは、とても幸福なことなのだろう。)