●お知らせ。前にも書きましたが19日発売の「早稲田文学」七号に法条遥論を書いています。法条遥の小説はとても粗くて、エンタメ系の作家としても上手な作家とは全く思いませんが、法条遥が小説にもちこんだ「主題」、あるいは、法条遥の小説によって形象化された「問題」は、とてもユニークなもので、重要かつ本質的なものだとぼくは思っていて、それについて書いています。そしてその主題あるいは問題は、この作家が今まで出版した五冊の長編のすべてにおいて一貫して追求されていて(作品の出来不出来の差はとても激しいのですが)、その徹底ぶりにも驚かされます。
●最近の京アニの面白さはなんといってもキャラの配置とそれによって可能になるフォーメーションの多彩さにあるのだなあと「中二病…」を観ていると思う。例えば「世界征服…」は、設定とキャラ配置という意味ではとても面白く、多彩なフォーメーションを実現し得る潜在的な力をもつと思うのだけど、実際に実現されるフォーメーションとその展開は潜在的な力を十分に生かし切れているとは思えなくて、だからいつも「ああ、惜しいなあ」という感想になる。二期目の「中二病」は、物語的にはありがちなラブコメの域をまったくでないものなのだけど、その分、高度なフォーメーションの展開のみに集中している感じ。それはホークス、キューカー、ルビッチなどによって四十年前後につくられたスクリューボールコメディを想起させるような抽象性をもつ。京アニは、いまもっとも抽象性の高いアニメ作品をつくる制作会社だと思う。
(こんなに抽象性の高い作品が多くの人の支持を得るのは「萌え」の力なのだろうけど、ぼくには「萌え」の感じがいまひとつよく分からない。ぼくはホラーもアニメも好きなのだが、ホラーを観てもまったく怖くないし、アニメを観てもまったく萌えないので、そのジャンルの最も「美味しいところ」を分かっていないのかもしれないとは、思う。)
ただ、この高度なフォーメーション展開は、「物語を語る」こととなかなか相容れない。そもそもは、フォーメーションの展開が結果として物語となるはずなのだけど、フォーメーションが高度化すると、物語はフォーメーションに対して、遅すぎて、粗すぎるものとなる。フォーメーションは物語の隙間を走り、物語はフォーメーションに対し常に遅れる。ぼくは「境界の彼方」がすごく好きなのだけど、この作品はその二つのものの相容れなさ(ズレてゆく感じ)そのものが主題化されているような作品だと思う。混ざらないけど、同居している感じ。
京アニの作品以外で、キャラ配置とフォーメーションが見事だと思うのが「げんしけん二代目」で、しかしこの作品が京アニと違うところは、フォーメーションの高度化と物語を語ることとを、出来る限り一致させようとしているところたろう。