●『境界の彼方』が終わった。名瀬泉と藤真弥勒の消え方に「二期(あるいは映画版)もあるぞ」的な含みを残す感じ。
面白かった。面白くない回が一回もなかった。でも、何がどう面白かったのか言葉にするのは難しい。物語的には、ありがちというか、どこかでみたことのあるような要素の寄せ集めというか、「こういう話はもういいよ」とさえ言いたくなるものではあったけど、この作品で重要なのは「京アニが、あくまで京アニでありつつも、何かしらの物語が語られている」ということで、その内容ではないと思う。なんというか、前衛的な風味を抜いた、京アニ的な『フリクリ』みたいな感じ。
例えば、シリアスな場面でも、一気に「泣かせ」に流れることなく、小ネタ的なギャグをちょいちょい挟んでくるとか、アクションも、ガーッときてバァーッ、みたいな勢いで行くものではなく、クオリティの高い場面を短いスパンで次々に展開させてゆくとか、物語の設定のなかにあらかじめメタ的要素が多数織り込まれているとか、場面内でのキャラ間のフォーメーションが多彩だとか(例えば、ここで弥生にツッコミをいれるのが桜なのか!、みたいな)、つまり、観ている間じゅう常に、次の瞬間にどっちの方向へ向かうのかが分からない。一話目から最終話までずっと、道がいつも曲がりくねっていて、先が見通せるまっすぐな道がなかった。常にハイクオリティ、常に高密度な状態がつづくのだけど、その様相というか、方向性が刻々と移り変わってゆくので、暑苦しく、ペタッと単調な感じにならない。
物語の内容はどうでもいいようなことを書いたけど、お話としてはどうでもよくても、その展開というか、構成の仕方は重要で、例えばぼくは『京騒戯画』の後半はまったく面白くないと思ってしまったのだけど、それは物語を組み立てる構成(というより構築)が面白くないからで、なにか延々と説明ばっかり聞かされているように感じられてしまった。設定は面白いと思ったのだけど、設定と説明しかなくて、「物語」がない感じ。あるいは「展開」がない。対して『境界の彼方』では、ありがちな話ではあるけど、物語がちゃんと物語られている感じがする。
物語が物語としてきちんと語られていつつも、物語は別にこの作品の最重要要素だというわけではないということも示されていて、様々な要素が現れたり消えたりしつつも折り重なっている、その交錯そのものが面白い。今までの京アニの作品は、物語の部分をゆるく設定することによって(あるいは、物語を強く引っ張る激しい感情のような要素を少なくすることで)、展開の多層性や運動の多重性(あるいはキャラの純粋性?)を実現して、その世界の豊かさを実現してきたと思うのだけど、この作品では、そのことと物語を語ることとが両立しているように思う。
例えば『氷菓』の場合は、ほぼ物語=ロジックで、因果関係によって繋がる一本の論理的な線を中心に置きつつ、キャラクターたちのつくりだす立体的、複数的な展開がそれを取り囲み、ふくらみや運動をつくっていたように思う(特に学園祭の話で)。
境界の彼方』では、物語として展開できそうな多数の要素がバラバラに散らばっていて(多)、それがその都度、まるで偶発的に繋がったかのように繋がる(一)ことで物語が展開してゆく。だからこの作品では(秋人と未来との関係が中心になるのだろうという以外は)中心となるような一本の線(方向性)は「結果として」しか見いだせず、しかし「結果として」物語は語られる。ある固有の展開が「この物語」として示されるのだが、しかし同時に、その展開を可能にした多層的な諸条件も(たんに背景としてではなく)とても強く前にでている。複数の線があって、その都度どれかが主となりそれ以外が従となるのだけど、その主従関係が常にくるくる入れ替わっている感じ。
例えば、『たまこまーけっと』では、たまこともち蔵との関係=感情は作品を一義的に強く引っ張る(方向づける)ような力にまでは顕在化せずに抑制され、それによって作品に多層的な広がりや運動が生まれる余地ができる。一方、『中二病でも恋がしたい!』では、立花と勇太の関係=感情が作品を強く引っ張る要素にまで発展してゆく(抑制されない)が、それによって終盤の展開は一義的で、やや単調な感じになる。『境界の彼方』の未来と秋人との関係=感情は、ある意味では『中二病…』の立花と勇太の関係以上に強いものとして前景化するが、同時に、作品を一義的に引っ張る(一色に染めてしまう)ような一義的な強い力ということにはならないので、作品の多層的な広がりと運動は維持される。だから、京アニ京アニとしての表現を十分に発揮しつつ、物語を語ることができた。
(そう考えると、『たまこラブストーリー』がどんな作品になるのか、ちょっと楽しみになる。)