●『境界の彼方』についてもうちょっと。
秋人は、(性的な嗜好として)「メガネ美少女が好き」なのか、「メガネ美少女だから(メガネ美少女の一人として)未来が好き」なのか、あるいはただ(他ならぬ)「未来」が好きなのか。勿論、そのすべてだろうと思う。秋人の未来に対する「感情−関係の仕方」は複数の層に分裂しつつ重なっていて、分裂した層の上を場面ごとに行ったり来たりしている。どの層が表面化しているのかは、その時々によって異なる。秋人が新堂写真館から未来のコスプレ写真を買うのは、それが「メガネ美少女のコスプレ写真(嗜好性)」だからだし、「メガネをかけている未来のコスプレ写真(タイプ/トークン)」だからでもあるし、たんに「未来の写真(固有性)」だからでもある。あるいは、秋人が、「要するにメガネが大好きです」と言う時、「メガネ」が好きだと言っているのか、「メガネ美少女である未来」が好きだといっているのか、ただ「未来」が好きだといっているのか。
このような、関係=感情の層の複数性は、秋人と博臣の関係にもみられるし、博臣と美月、美月と未来、秋人と美月との関係にもある。主要な登場人物たちのほとんどすべての関係性が多層的であり、その場面・場面によって、同じ人物同士であっても関係の別の側面が表面化している。それは、未来が口にする決まり文句である「不愉快です」が、使われる場面によって意味もニュアンスもまったく異なるものになることにも表れている(「物語シリーズ」の「なんでもは知らない、知ってることだけ」という決まり文句の一義性とはかなり違う)。
境界の彼方』という作品の複雑さ、あるいは分裂的な感じは、このような多層性が常に意識され、肯定されているからところからくるのだと思う。どんなにシリアスな場面――例えば秋人と未来とが「固有性」の側面において対面している時――であっても、秋人の「メガネフェチ」的側面はまったく消えてしまうことはない、とか。だから、シリアスな場面でも小ネタのようなギャグが差し挟まれたりする。だがこれは、シリアスな場面を茶化しているわけではないし、秋人と未来との関係−感情が強く激しいものになってゆくことを抑制しているのでもない。ただ、いくつもの層が同時に肯定されているのだと思う。
これは、元々メガネ好き→メガネ美少女である未来に目をつける→次第に未来自身が好きになってゆく、というような物語的時間発展とは少し違っていて、三つの層がどの時点でも常に同時にあるのだから、それらが入れ替わりに顕在化するという形式になる。おそく『境界の彼方』の面白さ(あるいは分かりにくさ)はここにあるのだと思う。これによって、京アニ的な表現の幅の広がりと、物語のある程度の求心性が両立しているのだと思う。
●だからきっと、登場人物の感情に「流れ」として没入して作品に入り込むタイプの人は、いらないところに寒いギャグが入ったり、ちょこちょこ場面転換があったりして流れが断ち切られるのが気に障るだろうし、ミステリのように、ばらまかれた様々なピースが最後にきれいに一つの絵になるような話じゃないと満足できない人は、ありがちの物語を適当にツギハギして投げっぱなしというような不満を感じるのだろうとは、思う。流れ(感情)でも絵(因果関係)でも表せないものが、表されているから。
●でも、ぼくは、これだけ分裂的な形式で、しかも物語としてはありきたりなのに、登場人物が魅力的であれば、最後はなんとなく感動してしまうものなのだなあという感想をもった。なんでこんなありがちな話――物語にはまったく感心しない――で泣きそうになっているのか分からないけど、なんか泣きそう、みたいな感じ。
ぼくがこの作品で強く感じたことの一つは、キャラがとても魅力的だということだった。ぼくはアニメを観る時どうしても形式的な側面を観てしまいがちで、キャラに萌えたり、キャラの感情に引っ張られたりすることはほとんどないのだけど、この作品では、主要な登場人物のほぼすべてが魅力的であるように感じられた(名瀬泉と藤真弥勒は「役割を演じている」感じだったけど、でもこの二人は「謎の人物」なのだからある程度は仕方ない)。
ただ、キャラが魅力的だというのは、一人一人のキャラクター造形が際立って魅力的だというよりも、キャラ間のフォーメーションの多彩さが、結果として一人一人の人物を面白く見せているのだと思った。キャラが、場面、場面によってどんどん自らの位置を変えてゆく。特に、大勢の人物が一堂に会する場面で、誰のどんな行動や発言に対して、誰がどう反応するのか、そしてそれが他の人物へとどのような連鎖をつくるのか、という展開がとても面白いと思った。そしてそれは、前に書いたように、登場人物たちの関係が多層的に仕掛けられているところからくるのだと思う。