2023/11/09

⚫︎『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』、最後まで観た。みんなで協力して幽霊になって現れた「めんま」を成仏させるという体で、実は逆に、過去に囚われている「生きているみんな」を、幽霊となって戻ってきためんまが救うという話で、トーマス・ラマールの言う「美少女が世界を救う」系の話だと言えると思った。

めんまが幽霊になって戻ってきたのは、亡くなった「じんたん」の母との約束(じんたんをいっぱい笑わせる)のためで、だから、めんまはじんたんにしか見えないのだが、めんま自身が自分が戻ってきた目的を忘れているので、じんたんがめんまの目的=希望を叶えて成仏させるために、その目的を探るという過程で、疎遠になってしまっていた超平和バスターズの他の五人との関係が再開される。関係の再開によって、五人それぞれが抱えている過去の「呪い」が露わになり、かつ、見えないめんまを媒介として、五人(+めんまの母)の関係が再編成され、呪いが解かれていく。

小学生の時に亡くなっためんまの幽霊は、亡くなった時の姿ではなく、他の五人と同じように高校生くらいに成長している。しかし「じんたんへの好きは結婚したいの好きだよ」とおよそ高校生とは思えないこと言ったりして、中身は子供のままのようだが、しかし、小学生そのままという感じでもない。おそらく彼女は、成長はしているが「性的なもの」には目覚めいないということなのだと思われる。

めんまは、すべての登場人物から好かれ、二人の男性から愛され、二人の女性から嫉妬され、かつ、成長に伴う屈折を経ていないで天真爛漫であるという、ほぼ完璧な人物であり、ということはつまり内実がない。彼女は、すべての人物のトラウマであり、かつ、トラウマを解消する(自身の傷を持たない)媒介でもあり、つまり彼女は、すべての人から愛されると同時にすべての人の傷であるという「機能」のみでできている抽象的なxであって、故に幽霊としてしかあり得ない。彼女の死の詳細が最後まで明らかにされないのは、それが具体的な事件というより、神話的な出来事としての傷=呪いの根源だからだろう(フロイトの原父のような)。

この作品の顕在的なトラウマ場面は、あなるに「じんたんはめんまが好きなんでしょう」と問われ、じんたんが「好きじゃねえよ、こんなブス」と言ってしまう場面だ。この作品全体が、ここで「こんなブス」と言ってしまったことへの後悔と自責の念の上に乗っかっているともいえて、つまりこの後悔と自責こそがリアルで、だとすれば、めんまという人物(幽霊)の造形、および「めんまの死」は、物語的に加工されたデコイとしてのトラウマと言えるのかもしれない。

この作品はとても成功(ヒット)したのだが、脚本の岡田麿里はその出来に納得しきれていなかったのではないか。美少女が世界を救う話ではなく、少女が、自分の呪いを、(周囲を人を巻き込みつつも)自分自身で救う、という話を書かなければと考えて『心が叫びたがってるんだ。』が書かれたのではないか。