2023/11/16

⚫︎『荒ぶる季節の乙女どもよ』、最後まで観た。素晴らしい傑作、というわけではないとしても、しみじみと良かった。主要な登場人物五人の関係がギクシャクしかけたところに、大事件(というか、大事件の失調)があって、問題を残したまま、なんとなく関係が回復されるという終わり方が、今ひとつシャキッとしない感じもあるが、そもそも終わりようのない話なので、これはこれで良いと思う。最後に、主人公(カズサ)が男性(イズミ)の中にも自分と同じ「戸惑い」があることを発見するので、それによって綺麗に終わるとも言える。

全体として、いい話とか、きれいごとに流れそうになると、身も蓋もない生々しい細部がふっと挟まれるという感じ。八割がきれいごとで二割くらい身も蓋もない生々しさがあるというくらいのバランスだと思うが、その二割によって、きれいごとに綺麗に着地しない。きれいごとには収まらないが、露悪的なリアリズムでもない。基本として上品な表現だけど、生々しさを失わない。

たとえば、主人公(カズサ)の恋人となるイズミは、ある意味典型的な理想化された幼馴染キャラだが(子供の頃は弱々しかったが、いつの間にか立派なイケメンに成長し、しかもめちゃくちゃ性格がいい)、性的なことに関しては、時々とても生々しい。常に生々しいのではなく、思い出したかのように(忘れた頃に)、時々、ふっと生々しい。ここに、リアリズムとは異なるリアルさが生まれていると思う。

主要な五人の登場人物たちのキャラ付けの配置も、ある意味では王道のパターン通りなのだが、それぞれが、そのパターンから一歩踏み越えるくらいのリアリティがある感じ。たとえばホンゴウ先輩。彼女は、登場人物が五人くらいいれば必ず一人はいるという曲者キャラであり、変態担当キャラであるが、その変態に関して紋切り型に収まらない内実を感じさせる。

ホンゴウ先輩は、顧問の教師(ミロ先生)と、間接的、倒錯的な性的関係にある。それは、正式な恋愛関係には決して至ることができないという断念からくるもので(教師の側に、教師と生徒、大人と子供との境を、ギリギリで踏み越えないという倫理的制限がある)、それ自体が彼女には屈辱的なものでもあるが、彼女はその屈辱的なあり方の中からも、非常に強い、高い、性的興奮を引き出すことに成功している。彼女は、美少女キャラであるスガワラ氏と裏表にあると言える。

スガワラ氏は、美しく生まれたが故に、自分自身の「性的な欲望」に目覚めるより前に「他者からの欲望」に巻き取られてしまっていて、それが「呪い」となっている(その呪いは中年、というか初老の男性演出家との関係として形象化されている、ミロ先生とは異なりこの男には倫理性がない)。彼女は魅力的であるにも関わらず、というか、だからこそ「性的」にしか見られず、恋愛という観点では(ホンゴウ先輩と同様に)「負け」の位置にいるのだが、だからこそ(と言っていいのか ?)イリーガルなやり方で高い性的興奮を得ることになる(電車の中でイズミに強引に尻を触らせる)。この行為は加害であり彼女に後悔と屈辱を強く残すことになるだろうが、そこに高い性的興奮があることは否定できない。

(この作品では男性側はそれほど深く描かれないが、興奮はイズミの中にも湧き上がり、しかしイズミにとってそれはトラウマのように作用するだろう。)

(ホンゴウ先輩は、ミロ先生の抑制によって、ギリギリ倫理の内にとどまり、そこから倒錯的に興奮を引き出すが、スガワラ氏は、時々危うく倫理を踏み外す。)

恋愛としては「勝ち」の位置にいるカズサやソネザキ部長よりも、「負け」の位置にいるホンゴウ先輩やスガワラ氏の方が(恋愛関係になれない)男性から(いわば「不当なやり方」で)高い性的興奮を得ているという作品全体としてのあり方が、恋愛と性欲とが(まったく分離しているのではないが)決して綺麗には一致しないという、どうしようもない理不尽の表現になっているように思う。特に、ホンゴウ先輩とミロ先生との関係が、この作品の重要な裏地として、説得力に大きく関わっていると思う。

(基本的には大人であるミロ先生の抑制が優位であるが、ホンゴウ先輩もかなり頑張って攻め込んでいるので、二人の関係=せめぎ合いは拮抗している。対して、スガワラ氏は、最後に逆転するまで、一方的におっさん演出家の呪いの圏内にいる。もちろんそれはスガワラ氏の力不足などではなく、物心つくより前に呪いの関係に絡め取られてしまっているからだ。)

(五人の中でモモコは、まるで「あるあるネタ」のようなヤバイ男子とつきあうだけで、いまいち希薄な感じだったが、終盤になるにつれて存在感と自分の意思とを増していき、おお、と思った。)

⚫︎恋愛勝ち組(カズサ・ソネザキ先輩)と恋愛負け組(スガワラ氏・ホンゴウ先輩・モモコ)に分かれるが、彼女たちはすべて、周囲との関係や周囲からの働きかけを通じて、「自分の欲望」に何歩も遅れて気づく。それは、もともと自分の中にあったとも言えるし、周囲との関係の中で、今、そのように組み上げられたとも言える。そのような意味ですべての人物が変化する。その変化は、もはや「性的なもの」と無縁であった時期には戻れないという不可逆的な時間の進行(乗った電車からは降りられない)の中で探り出された「(性的なものとしての)未知なる自分」との折り合いの付け方の発見としてあるだろう。