●U-NEXTで、『花束みたいな恋をした』を観た。「大豆田とわ子」にハマった者としては(同じ坂元裕二脚本の近作である)この映画をスルーするわけにはいかなかった。ただ、観始めて30分くらいは、あまり良い印象はなかった。有村架純と菅田将暉は、なんとと言ったらよいのか、サブカルともオタクとも少し異なる、やや濃いめの文系ユースカルチャー全般みたいなものが好きな二人なのだが、冒頭の30分くらいで飛び交っている様々な「固有名」を聞いて、舐めてんのか、と、そういう名前さえ出しとけばお前ら食いつくんだろ、みたいな態度が透けてみえるように思えて、いやいや、たんに普通の恋愛ドラマに濃いめのカルチャーをまぶしたくらいで騙せると思うなよ、少なくとも『中二病でも恋がしたい!』とか、そのくらいの本格的なやつを観てから出直せよ、みたいな「マウントをとりたくなる」気持ちにはなった。
有村架純と菅田将暉はすごくぬるい。たとえば、有村架純はアイスクリーム店でバイトするのだが、普通はこういう趣味の人は、まず、書店、古書店、あるいはライブハウスやイベントスペースやカルチャーセンター、搾取されるかもしれないが単館系の映画館、上手くいけば出版関係などでバイトしたいと思うのではないか(どこもバイト代は安そうだが、アイスクリーム店がそんなに給料がよいとも思えない)。しかし、そのような作り手や送り手側にがっつりかかわるような場は選ばずに、普通におしゃれめなアイスクリーム店を選ぶ。あるいは菅田将暉ははイラストレーターを目指し、先輩の写真の作品の個展などに足を運んだりはするが、彼の部屋にイラストレーションやデザインにかんする本が目立つことがないし、また、人間関係のある先輩以外の人の展覧会を積極的に観て回る様子もない。好きなイラストレーターが話題にのぼることもない。
だけど、この映画ではそのぬるさこそが重要であり、そのような「ぬるいオタク」を中心に据え、ぬるくある存在を肯定的に描くというところに重点があるのだと、しばらく観ていくと気づく。有村架純と菅田将暉は、濃ゆいコミュニティに積極的に参加することのないぬるいオタクであるからこそ(「濃くない友人」はいるとしても)孤独なのであり、普通の人とも、ガチオタの人とも話があわない(どっちつかずで、中途半端である)。そのような、「同じようにぬるい(が故に孤独な)」二人が出会ったということが貴重なことなのだ。この映画は極端な人の物語ではなく、あくまで中庸な人の話だ。オタクと呼ばれる多くの人は、一方でちゃんとした定職をもって真面目に働き、もう一方で、自分の稼いだお金で「推し」に課金することを喜びとする。あるいは、作り手や送り手を目指す人は、低い収入や不安定な立場、将来の見通せなさなどを引き受けつつも、制作(製作)活動をつづけることを選ぶ。だが二人はどちらでもなく、その中間のいいとこ取りを、なんとなくふわっと実現させようとする。そんなに都合のいいことがあるのか、甘いだろう、と言いがちだが、そのような言葉は既に「この社会のあり様」に汚染されてしまっている。
もしそれが上手くいくのならば、それこそがまさに中庸であることによって実現される「奇跡」であって、それは肯定され、祝福されるべきだろう。そしてこの映画は、そのような奇跡がたとえ一時であっても成立したことを示している。
だがこの映画は、そのような奇跡を言祝ぐ映画ではなく、一度は成立した奇跡が、じっくりと時間をかけてじわじわ崩壊していく過程を(まるで化学の実験のような感じで)冷徹に提示していく。そしてその崩壊の主な原因は、中庸であることの弱さであり、もっと言えば、中庸であることの弱さを認めない「この社会のあり様」であると言える(このような「社会のあり様」は、まず最初に、「広告代理店的」であるとされる有村架純の両親によって二人の間にもたらされる)。菅田将暉は、中庸なところから徐々に「普通に働く人」の方へ移動していき、有村架純の方は、中庸なところから徐々に「作り手や送り手に近い立場の人」の方へと移動していく。どちらかを選択せよという社会的な要請が強く働いてしまうのだ。
恋愛は、一見ごく個人的な関係のようにみえるが(というか、実際そうであるが)、もう一方で異性愛的恋愛がつくる男女のカップルは、「この社会」を構成する最小限の基本単位であるから、そこには否応なく「社会」が深く貫入してくる。仮に、どちらか一方を選択せよという社会的な要請が強いとしても、二人ともが同じ方向へ(たとえば、二人そろって「作り手送り手側」へ)近づいていくように移動すれば、二人の関係(いい感じ)は維持されたかもしれない。しかしそうはならず、二人の方向がばらけてしまったことの背景には、「この社会」ではまだ、男性に期待される役割と女性に期待される役割との間に歴然とした違いがあることが作用しているようにみえる。菅田将暉は決してマッチョな価値観をもつ人ではないが、そんな人でも「男」が「会社」に入るとそちらの方へと誘導されてしまう。恋愛に否応なく「社会」が貫入してくる様を描いているという点で、この映画はきわめて社会派的である。
(逆に、男は外で働き、女は家庭を守る、というような価値観がきわめて強く作用していた時代であれば、二人の関係はすんなりその枠に収まって、破綻していなかったかもしれない、とも言える。)
(そもそも、入社前は「五時で帰れる」などと上手いことをいいながら、入社してしまえばこき使い、意義を唱えようとするよりも前に先回りして「五年我慢すれば楽になる」といってつなぎ止めて、人のもつ責任感をたてにとって拘束しようとするなどというのは、まったく悪質で詐欺的な手口だ。)
だがこの映画は、恋愛はあっけなく壊れてしまうという映画ではなく、むしろ、一度成立した関係は実はなかなか破綻しないという映画であろう。ここで描かれるのは、心はとっくに離れてしまっているのに、互いにそのことをなるべく(自分自身に対して)気づかないようにして、相手に対して最大限の配慮をはらいつつ、関係がずるずるとつづいていく様だろう。むしろ、恋愛を破綻させるのはとても難しい、という映画であるようにみえる。有村架純も菅田将暉も、どちらもとてもいい人であり、たとえば菅田将暉の先輩のようにDVでもあれば、二人の関係はもっとすんなり解消できたかもしれないが、菅田将暉は一線を越えるようなことを決してしない人であるために、関係の解消はどこまでも先延ばしされる。
仮にこの、(互いに相手に対して最大限の配慮を行う)関係の先延ばしを一生つづけることができたならば、二人の関係は別の次元に到達し、二人はとてもよいカップルであった、ということになるかもしれない。実際、そうなりそうな一歩手前までいくのだが、そうはならないのは、二人にとって「奇跡」の経験があまりに大きすぎるからであろう。目の前で、かつての二人の「奇跡」の再現のようなものを見せられることで、このまま、あたかも「奇跡」などなかったかのように関係をつづけることは出来ないと、二人は思ってしまう。つまり、幸福で奇跡的な出会いこそが、二人の関係の「別次元への昇華」を妨げたとも言える。あるいは、恋愛関係になりさえしなければ、二人は最良の一生の友人だったかもしれない。その、どちら(奇跡あり/奇跡なし)が良いとは、簡単には言えない。
(オダギリジョーが出てきた時、またお前なのか、と思ってしまった。そして、最後の方で有村架純がオダギリとの浮気を匂わすような発言をする場面で、ああ、そこをちゃんと誤魔化さないのだな、と思った。)
(有村架純は、菅田将暉と付き合うことによって、菅田の先輩の彼女である韓英恵と知り合い、友人となる。有村架純と韓英恵との友人関係は、韓が先輩と別れた後でもつづくし、有村が菅田と別れた後もつづくだろう。有村架純は、女性たちとの関係において浮いており---あるいは「浮かないように」演じている必要があり---それまで韓英恵のような同性の友人はおそらくいなかった。そのことによって彼女は孤独であった。しかし、「ぬるいオタク」としての有村架純の孤独は、菅田将暉によってというよりもむしろ韓英恵という存在によって埋められたように思う。しかし、菅田将暉にとってそのような存在であったと思われる「先輩」は死んでしまうのだ。)
(ところで、「花束みたいな恋」という比喩がどういうことなのかよく分からなくて、映画を観れば何か分かるのかとも思っていたが、結局よく分からないままだった。)