2021-07-15

●ここ数日、ボルヘスの小説をいろいろ読み直していたのだが、東工大の講義で取り上げる作品は、思い切りベタに「円環の廃墟」と「バベルの図書館」にしようと思った。ある意味で小説入門のような講義なので、あまりひねった感じにしない方がいいだろう。ただ、この二作はボルヘスの代表作といえるかもしれないが、必ずしもボルヘスの作風を代表しているわけではないと改めて感じた(『ボルヘスとわたし』の自作解説のなかでも、「円環の廃墟」を自分の最高の作品だとする世評に異を唱えている)。この二作は、まるで数式で書かれた小説であるかのように、一行の冗長さもなく、すべての行による緻密な構築によって、過不足なく(まるで結晶のような)一つの複雑な構造体をつくりあげている。そのような小説の代表と言える作品だと思う。ただ、ボルヘスは必ずしもそういう小説を書きたかったわけではなく、もっとシンプルな、悪漢的ガウチョの物語や、故郷であるブエノスアイレスの土地柄を感覚的に表現するような小説を書きたいと思い、書こうとしていたのだと感じられた。

(そのほかに、現代アニメにも通じるような過去改変---「夢」と「記憶」を媒介とした過去改変だという意味ではいかにもボルヘスっぽい---の物語である「もうひとつの死」、ミステリのパロディであると同時に、「バベルの図書館」系の自作に対する批評でもあるかのような「自分の迷宮で死んだアベンハカーン・エル・ボバリー」などが強く気にかかった。)

まるで数式のような、結晶のようにソリッドなボルヘスの小説に対して、伸びやかに、生き生きと飛び跳ねるような感覚的描写をもった作品として、チェーホフの短編をいくつか対比的に示して、小説というメディウムのもつ表現の幅広さを感じてもらいたいのだが、それにふさわしい作品をみつけるために、次はチェーホフの短編を読む。

以下は、ボルヘス『創造者』(鼓直・訳)から「鳥類学的推論」という印象的だった短い断片(最後の一文は、飛躍しているというか、論理的につながっていないように思うのだが…)。

《目を閉じると鳥の群れが見える。映像は一秒そこそこしか持続せず、見えた鳥の数もはっきりしない。その数は限定されたものだったのか、それとも限定されないものだったのか? 問題は、神の存在というそれを含んでいる。神が存在するとすれば、その数は限定されたものである。神は、わたしが何羽の鳥を見たかをご存知だから。神が存在しないとすれば、その数は限定されたものではない。誰もそれを数えることはできなかったのだから。この場合、わたしが観たものは一羽以上、十羽以下の鳥であると仮定しても、それは、九羽、八羽、七羽、六羽、五羽、四羽、三羽、或いは二羽だったことを意味しはしない。わたしが見たのは、飽くまでも十と一との中間の数であって、九、八、七、六、五……のいずれでもない。問題の整数の推測は不可能であり、故に、神は存在する。》