2023/11/10

⚫︎『観光客の哲学 増補版』の第一部を読んだ。ざっと斜め読みみたいな感じなので粗い読みしかできていないが、人間と動物、政治と経済、ナショナリズムグローバリズムコミュニタリアンリバタリアンの二層を同時に生きるという記述には基本的に共感するし、それをスモールワールドとスケールフリーによって表すというのも納得できる(ずいぶん以前から柄沢祐輔さんを通じて近い話を聞いていたということもあるが)。ただ「誤配」という概念の有効性はどうだろうかと思った。

誤配は、スモールワールド的側面では有効だと思うが、スケールフリー的な側面では有効ではないのではないか(それは誤差の範囲内に収束するのではないか)。《誤配をスケールフリーの秩序から奪い返すこと》と書かれているが、誤配によってでは「べき乗則のグラフ」を揺るがせられないのではないかと思う。そうなると、動物的、経済的、グローバリズム的な側面においては、現状を追認するしかなくなる。ずっと以前だが、柄沢さんに教えられて複雑ネットワーク理論の本を多く読んだ時から思っているのだが、この、ほとんど物理法則であるかのように強く効いている「べき乗則のグラフ」を揺るがせられるだけの、何かしらの人為的(かつ自動的)な強いアルゴリズムを介入させなければ、世界の部分的改善はあり得ても、構造的な変革のための思考は望めないのではないか。

人間の(動物的な)欲望や無意識に従うかぎり「べき乗則グラフ」が自然に現れてしまうのだとすれば、人間の思惑や裁量にまったく左右されない(そしてランダム・アクセス的な偶然性に頼るのでもない)機械的に進行するプログラム(スマートコントラクトのようなもの)の介入を考えなければ、「べき乗則グラフ」は越えられないのではないかと思う。

(たとえば、人はなぜ「強いリーダー」を求めてしまうのか、という問題は、人間の人間的側面というよりも人間の動物的な側面からきているように思われ、しかしそのことが人間的=政治的な側面にも強く効いてきてしまう。ここで「強い」とは中央集権的なという意味で、必ずしも「マッチョな」という意味ではない。優しい、柔らかな、しなやかな、魅力的な、やんちゃな、楽しげな、思慮深げな、であっても同じ。)

たとえば柄沢さんは2009年に「中心が移動し続ける都市」というコンセプトをインスタレーションとして示している。

www.ntticc.or.jp

2008年にノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマンは,著書『自己組織化の経済学―経済秩序はいかに創発するか』において,資本主義に基づく資本の自己増強(自己組織化)のメカニズムが,どのように都市空間の発展,さらにその帰結として中心地と後背地といった不均衡をもたらすかを,複雑系の概念を応用した数学的モデルによって独自に説明しています.このインスタレーションは,その資本の自己増強メカニズムを逆手にとって解釈し,都市の不均衡を招く空間的自己組織化をゆるやかに解体・コントロールする方法論を,新しい幾何学数理モデルによって提案します.動的な中心地と後背地の関係を記述する都市モデル自体が,都市の生成プログラム・コントロール・システムとなることで,自己組織化に関与する新しい都市モデルがグラフィカルに提示されます.

以下は、『アルゴリズムによるネットワーク型の建築をめざして』という本より引用。

《(…)ここでは、繁栄する中心と衰退する郊外がどのように分岐するかをシミュレーションによって計測し、その格差が拭いがたく固定化した瞬間に、中心地が衰退している郊外へと移動していくモデルをソフトウェアとして実装した。》

これは実現性の低い思考実験のレベルだが、このようにして、(二十世紀の前衛芸術にあったようなランダム・アクセス的偶然の介入ではなく)スケールフリーのレベルに作用して、スモールワールド的な状態を、計算(機)によって人為的かつ自動的に作り出していくようなやり方を考えていく必要があるのではないかと思う。

⚫︎これとはまた別の文脈の話だが、完全に平等な(ランダムな)交換からも格差が自然に生じる。『データの見えざる手』(矢野和夫)という本でこの事実を知った時には絶望的な気持ちになった。

toyokeizai.net

だからおそらく、動物的、経済的、グローバリズム的側面でスケールフリー的秩序に抵抗するには、「機会の平等(自由競争)・動物的」と「(最低限度の)結果の平等(再分配)・人間的」という二つの異なる原理の「重ね描き」が必要で、つまり、基本的には機会の平等(自由競争)であるが、格差が一定以上広がった(あるいは固定した)場合は(権力者、有力者の政治や裁量とは無関係に)自動的に格差の是正(一定の偶発性を孕んだガラガラポン的な再分配)が行われるシステムが作動する仕組みが必要であって(たとえば柄沢さんの「中心が移動し続ける都市」はそういうシステムの一つの「比喩」だろう)、後者の具体的構想がないと、スケールフリーは永遠にスケールフリーのままかもしれないのだ。

(「機会の平等」と「結果の平等」の「重ね描き」状態は自然状態では生成せず、人為的かつ自動的な介入、つまり、規則的だがその判断と運用に人間の裁量を用いない介入が必要だと思われる。そして、計算機の発達によって、「規則的だがその判断と運用に人間の裁量を用いない介入」をイメージすることができるようになった。未だイメージに過ぎないとしても。)

(「機会の平等」と「結果の平等」とを「重ね描き」させるのは本来は「国家(人間的)」の機能の一つだが、人間が運営する現状の国家はあまりに効率が悪すぎる。とはいえ、なんとか崩壊しないでそこそこ頑張っている、とも言えるが。このレベルでは誤配に意味があると思う。)

⚫︎最後の方でローティを引いて《(…)連帯をつくりだすのは、「あなたは、私が信じ欲することと同じことを信じ欲しますか ? 」という問いではなく、(…)単純に「苦しいですか ? 」という呼びかけなのだ》と書かれているのは、とても納得できる。

note.com