●「近代絵画」のディシプリンというものが、ぼくには結構しっかりと刻まれてしまっていて、それはほとんどぼく自身と不可分なもので、だからぼくは一生それを引きずっていくしかないだろう。現代が、本当にもう完全に「近代」が終わってしまった時代であるとしても、ぼく自身としては「近代絵画」というものの大きな達成が過去にあったことを忘れて作品をつくることは出来ない。これは時代の問題でも世界の問題でもなく、ぼく自身の問題だ。(同時代に生きている世界じゅうの人の多くが、そんなもの問題にしなくたって生きていけると思っている時代に、二十世紀の終わり頃に日本で生まれたぼくなどに、何故そんなものが刻まれてしまったのか。それはまさしく「誤配」されたとしか言いようがないのだが。とは言え、こうした誤配は今後も細々とつづいていくのじゃないだろうかという期待はある。)
しかし、自分以外の人間に対して、それを尊重しろと要求することが正しいことなのかどうか。それは、近代美術という「文脈」をきちんとふまえたならば、ぼくの作品にも一定の評価があって当然でしょう、というような、権利要求のようなものとなるだろう。(しかしそれは当然、「近代」なんかもう終わってるじゃん、という現代のアート界を支配する言説と対立せざるをえなくなる。)それは、社会のなかで自分が存在できるための僅かな場所(縄張り)を確保するための、政治的な抗争のための言説となるしかない。もし、社会のなかで画家として生きのびようとするのならば、そのような政治は不可欠であろう。しかし、そのような(美術史を言い訳にしたような)政治的言説を生産することは、ひたすら空しく、ひたすら消耗することでしかない。(そういう時ほど元気になる人もいるけど。)作品にふれること、そして、作品をつくること(つまり生きること)は、そのような政治(や言説)とは何の関係もないことだということを、他ならぬ「近代絵画」の偉大な達成(つまり、モダニズムの文脈ではなく、個々の作品そのもの「質」)こそが(「誤配」によって)教えてくれたのだ。
結局、「文脈」などを問題にしている限り、ものごとは縄張り争いにしかならないように思う。大きな物語が終わったといっても、それは、「正しさ」の縄張り争いから、「趣味」(あるいは剥き出しの「利害」)の縄張り争いに移行しただけだとも言える。(趣味というのはあからさまに「階級」的で排他的あり、正しさはそのような一種の同調圧力を超えるための原理でもあったということを忘れると、「正しさという強い束縛が消えたから、マイノリティによる〈弱い〉表現の共存が可能になった」とかいうようなことを平気で言い出すハメになってしまう。もちろん、だから「正しさ(近代!)」を復活させろというだけでは、たんなる反動でしかないが。)文脈とか場とか正しさとか趣味とか、そういうものを共有した人にでなければ伝わらないような作品というのは、そもそも弱いもので、そのような作品は、弱さの「言い訳」として文脈を必要とし、それに頼っているかぎり縄張り争いのなかに閉じ込められる。
ぼくは、別にモダニズム派ではないし、他人の作品でも、そのような作品だからという理由で支持したりしなかったりするわけではない。ぼく自身としては、近代絵画によるディシプリンを無視して作品をつくることは出来ないのだが(既に自分に刻まれてしまっているものを引き受け、それを生きるしかないのだが)、それを観る人が必ずしもそれを共有している必要などないと思っている。それを共有していない他人の作品を一切認めないというわけでもない。
一人一人がそれぞれまったく異なる文脈の束を背負い、異なる外傷を刻まれ、異なる病をもって生きているのだから、共有するものがまったくない人に対しても、何かしら響くところがあるような強さをもった作品のみが、縄張りを超え、世代を超える力をもつ。問題は、そこを超える何かが作品にあるかどうかという点だけだ。逆に言えばそのような作品は、作品を受容する側にも、共有するものなどまったくないところから何かを感じ取ることが出来るだけの、高い感度を要求する。だから芸術は、「開かれる」ためにこそ「難しいもの」(つまり、社会的には非常に微弱なもの)にならざるをえない。なにしろ、多くの人にとって問題は常に「縄張り」であり、「開かれる」ことなど望んでいないようにぼくには思われるのだ。
これが浮世離れした芸術家の戯れ言に過ぎないことは自覚している。実際に社会において重要なのは、どんなにささいなものであっても、何事かを「共有」出来る場(縄張り)をつくり出し、それを維持しようとする努力であることを否定する気はまったくないし、それどころか、そのようなことをしている人に対して、大きな敬意と、少しの羨望とをもつ。それは、何かを「この世界」に実際に存在させるために必要不可欠な政治的ふるまいだろう。ただ、ぼくの気持ちは「それだけでは決して納まらない」ということなのだ。