●絵画に関しては、あまりにも愛と憎しみが濃すぎて、自分でもちょっと身動きできない感じになってる気もする。どうしても、いろいろと不寛容になり、簡単には面白がれなかったり、「許しがたい」と思うことも多くなる。古典と友達の展示以外は、展覧会を観る気になれないというのは、いくらなんでもどうなんだろうと我ながら思う。現代美術に対するあまりの関心のなさは、自分のことなのに驚くくらいだ(だって、面白くないんだから仕方ない、とか、言わなくていいことを言ったりしてしまうのは良くないことだ)。それでも、ほんの数人は、現代の作家でもすごいと思う人がいて、そういう人が作品をつくりつづけてくれているというだけで充分に幸福なことで、きっと、いつの時代のどこの場所でも、状況はそんなにかわらないのだろうと思う。とはいえ、実践的には、つまり制作においては、まったくプラトニックではなく、いつでも楽観的で場当たり的であり、それ以外にありえないと思うし、そんなに行き詰っているというわけでもないのだが。
個々の作家のレベルでは、面白いことをやっている人は、きっと、けっこういるんのだと思う。しかしそれが、現代の美術の文脈や言説のなかでは、ひとつのまとまったかたちとしては見えてこないというだけなのだ。そういう人たちを、あるひとつの流れのようなものとして見える形にするのが批評なのだとしたら、やはり批評というものは必要なんだろう、きっと。それは、たんにアート界の政治的な勢力形成の問題というだけでなく、個々に、それぞれの場所で別々に作品をつくっている作家たちが、他にも(上の世代にも、下の世代にも)ちゃんとやっている人がいるということを知り、つまり「絵画」という系譜があるのだということを知り、それによって勇気づけられるという点こそが重要なのだ。
最近、美術について何か言葉をつづるという気持ちがほとんどなくなってしまっている。それは、ぼくはあくまで画家であり、つまり美術に関しては実作者で、実践に結びつかない形で、いくらもっともらしいことを言ってもひたすらむなしいだけだという気分に支配されているからだ。
確かに、つまらないものはつまらないし、下らなくいものは下らない。美術作品に対しては、ぼくには非常に不寛容で、そういうものは耐え難く、さらっと適当に流すことができない。しかし、言説のレベルで、(下らない作品を持ち上げている)他の言説と争ったって、それは「絵画」とは無関係なこととしか思えず、むなしいだけだ。私の方がものを知っているとか、私の方が絵画を正しく理解しているとか、目利きだとか、言説のレベルでの揚げ足取りとか、そんなことに巻き込まれることは、「芸術」からもっとも遠い行いだとしか思えない。
しかしそれは、現状に対する無力感であり、敗北主義でしかないのかもしれないとも思う。少なくとも、自分のやっていること、やろうとしていることについては、きちんと説明すべきだし、自分が良いと思っている作品については、こういうところが良いと思っているのだ、ということを表明し、他人を説得しようと試みるべきなのかもしれない、とも思う。そんな言葉が力をもつとは思えないが、しかし、やってみなければ何もはじまらない。それは、絵画に取り付かれた者として(実作することとはまた別の)最低限の義務なのかもしれない。でも、それは実践(制作するときのヤバい感覚、根拠はこころもとなく、不安で心細いのと同時に、強く何かに駆り立てられるような感じ)とはどうしても微妙にすれ違い、そういう意味では、やはりむなしく、時にうしろめたくさえあるのだが。
とにかく、「面白い」ということだけが言えればいいのだ。この画家は、この作品は、こんなに面白い、ぼくのやっていることは、こんなに面白い(はずだ)、と。