⚫︎千円と値段が手頃で、かつ、ツイキャス配信なので買いやすい、観やすいことから、いぬのせなか座の山本さんが参加していた「美術批評を読む 2」のアーカイブを買ってみた。おそらく、「図らずも」なのだろうが、(名付けはいい加減だ)レッシング系と生態心理学系という、芸術作品に対する態度として全く対照的な立場が取り上げられていて興味深かった。
芸術には歴史がある。ジャンルとして、技術体系としてメディウムの歴史があり、その分節的な価値づけとしてメディウム論という言説的な歴史がある。それと同時に「現在」という水準があり、それはアートワールドの文脈という形で現れる。一方に通時的な歴史があり、他方に共時的な文脈がある。芸術の「現在」は、歴史と文脈の交点にあり、現在という地平に新たな局面(文脈)が現れるたびに、過去へと歴史的な遡行がなされ、「現在」の文脈を正当化するために、アーカイブから古典が呼び出されてはその都度読み替えられる。そしてその読み替えそのものもまた、アーカイブへと蓄積される。雑に言えば、これがレッシング系の芸術への態度で、アカデミックな人や、批評家の大半がこの態度をとっている。
対して、生態心理学的な態度とは、作品を、あるいは現象を、歴史や文脈から切り離して(「芸術」というジャンルからすらも切り離して)、いわば「地球環境」の中に配置する。重要なのは、目の前で、今、起きていることの観察であり、記述であり、分析である。背景として現象(図)を成り立たせている「地」は、歴史や文脈ではなく、地球環境であり、観察するわたしも、現象する対象も、どちらも共通するその環境の中にある(共通する環境の中で、生まれ、育っている)。ここで必要なアーカイブは、言説の蓄積ではなく、観察、記述、分析のための技術・手法のアーカイブとなる。これは従来の芸術批評においては、(極めて中途半端で、不十分なやり方ではあるが)ファーマリズムが担っていたことだが、それをより徹底した形で行うことになる。
(この場合「歴史」は、芸術の歴史ではなく、地球の歴史として現れるだろう。)
「地球環境」というものを、あらかじめ規定された限定条件のように扱うという点において、生態心理学的な態度は、オートポイエーシスや内部観測といった立場から批判されるが、しかしこの批判は、歴史や文脈ではなく、目の前の出来事の観察や記述から始めるという前提を、オートポイエーシスや内部観察もまた生態心理学と共有しているからこそ成り立つ。そして、(このイベントで取り上げられた)佐々木正人は、「事後性」を強調することで、ある程度はこの批判に応え得ている。
(逆に、内部観測は「(地球上では)リソースが限られている」という現実をあまりに軽くみすぎてはいないか、という批判もあり得る。)
(オートポイエーシスや内部観測が、理論としてあまりに難解でハードルが高いのに対して、生態心理学は入り口として入りやすいという明らかな利点もある。)
両者(レッシング系、生態心理学系)は、二者択一的な排他関係にあるわけではないが、どちらにウェイトを置くかの違いは歴然としてある。通常、芸術にかんする「玄人」的な語りは前者のレッシング系のものとされる。後者のように語ると、素人っぽい、あるいは、アート(アートワールド)がわかってないかのようにさえ扱われる。
前者は、あくまで歴史的、社会的な水準にあり、社会の中で共有される「アート像」を示すものであり、また、そのような言説を組み立てることは「アートに詳しい人(専門家)」という位置を得るために必要とされる。後者は、「わたし」が「ここ」に生きていること、あるいは、わたしが「わたし以外ものもたち(環境や他者)」と共に生きていること、とは「どういうことであるのか」を、直接的に問い、探求するものだ。わたしが「わたし以外ものもたち(環境や他者)」と共に生きていることを問うこととは、「わたし/わたし以外」という境界や編成・配置を見直し、その書き換えや再定立についてかんがえ、実践することでもある。
(たとえば、アラカワ+ギンズは、芸術の歴史や文脈だけでなく、地球環境や地球の歴史すらも、薄っぺらなハリボテ的シミュレーションとして扱うので、このどちらの態度でも捉えきれない、規格外の大きさ(小ささ ? )を持つと思われる。)
(「文脈」的な話。90年代後半からゼロ年代はじめにかけて、生態心理学やオートポイエーシス、内部観測などが、それ以前の人文的な言説とはまったく違ったものとして脚光を浴びた。そこには、論理をソリッドに積み上げて体系を作れば世界が把握できるというような、近代哲学や分析哲学、古典物理学のような「論理の古典的なあり方」に明らかな限界が感じられていて、それを越えるものとして期待されたという側面が大きいと思う。それは、物理法則を理解し、地球上に無数のセンサーを張り巡らせたとしても、一週間後の天気や台風の進路すら十分に予測できないという現実(=古典的な論理の積み上げへの失望)と対応しているだろう。サイエンスにおける、複雑系や非線形科学の人文的対応物として。)
⚫︎「からだの錯覚」を扱う小鷹研理においては、後者の態度がより徹底される。錯覚は、今、ここ、このわたし、という場において現れる(あるいは、現れない)。ここでは、観察(分析・記述)対象と観察(分析・記述)主体とがぴったり重なり、同じ一つの場を占めている。わたしの錯覚は、わたしの身体の上にしか起こらないし、わたしの身体で現に起こってしまっている以上、それを否定(拒否)できない。わたしとあなたとは「人間」というアーキテクチャを共有するが、身体としては個別に切り離されている。小鷹は、「身体」とは諸感覚によって作り出されるオーケストレーションのようなものだと書く。(アーキテクチャ=楽器の編成にある程度の共通性があるとしても)あなたにおいて成立しているオーケストレーションと、わたしにおいて成立しているオーケストレーションとは異なるので、あなたにおいて有効な働きかけが、わたしにおいても有効とは限らない。
(ただし、『身体がますますわからなくなる』を読むと、小鷹の関心が「からだの錯覚」に限られているのではなく、自己-身体というシステムを、成立させ、そして、揺るがそうとする、さまざまな働き=半自己に向けられているのがわかる。)
「今、ここ、このわたし、という場において、現れるか/現れないか」、という錯覚のみもふたもない直接性には、歴史も文脈も物語も入り込む余地がないようにも見える。錯視のような「決定論」的な錯覚は、たんに人間というアーキテクチャのあり方を反映しているだけなので「そういうものなのだ」という以上の広がりはないだろう。だが、小鷹が扱うのは、「人間というアーキテクチャ」にかんするものというより「自己-身体というオーケストレーション」に揺さぶりをかけるものであるというところが違っている。
生態心理学が、たとえば盲人が空間を把握し、行動を生成するやり方を分析するとき、それは、他者(自分とは異なる身体組成をもつ者)における、空間探索と行為生成のあり方、そして経験のあり方を、外から分析することになる。しかし錯覚は、「わたしの経験」としてまず与えられ、それは自己への分節的な分析の有無にかかわらず、言語外のレベルで直に「わたしのオーケストレーション」へ揺さぶりをかけてくる。自分も知らないところで(不可逆的に)「効いてくる」かもしれないものだ。強制的に「自分ごと」にさせられる。ただし、研究者である小鷹は、実験や、実験結果の統計的処理を通じて、それを「外から」分析、記述することも行うだろう。錯覚は内的な出来事なので、直接的な観察は難しい(錯覚の有無を「聞き取り」するしかない、など)。とはいえ、その研究がまず「新しい錯覚の創造(あるいは改良)」を通じてなされるところが興味深い。それ(錯覚)について研究する研究者(たち)が、まずそれを発見し、経験する。研究者が研究対象(錯覚)の影響下から出発する。
⚫︎錯覚の直接性は、物語を必要としないし、物語を介入させる余地もない。その影響は、前言語的で、非物語的なものとして身体に作用する。しかし驚くべきことに、『身体がますますわからなくなる』の第4章ではフィクション(『パラサイト 半地下の家族』)が問題となる。まず、被験者の「頭の中」に実験者の手が突っ込まれるような体験を惹起する「エックスレイヘッド」いう錯覚を例に挙げ、そこで半強制的になされる「主体」が剥奪される経験について語られる。
《このエックスレイヘッドに限らず、ほとんどのからだの錯覚において、体験者は実験者に対して完全に身を委ねるか、あるいは主体性を十全に発揮しようにも、実験者のトリッキーな介入によって部分的に失敗する構造となっている。新しく侵入してくる異物としての「からだ」に対して、身体の主人である当人が、管理者としての責任を果たせていない状態だ。》
そしてその効果が、次のように語られる。
《この遊戯をはみ出した遊戯は、それまでに親しんでいた現実の身体が、今まさに目の前で展開されているような「あり得たかもしれない」、潜在的な現実のバリエーションの一形態に堕ちる感覚と痔続きである。》
主体感の剥奪と、そこで現れる強烈な「錯覚」体験(あり得ないことがリアルに体感されている)は、今まで当然のように前提としていた「現実」の価値を相対化する。それは、揺るぎない、疑いない「現実」ではなく、そうであるかもしれないが、そうでないかもしれない、現実の「あり得たかもしれない」一バージョンに過ぎないのではないか、と感じられる。盤石に思えた「現実」が、可能性の一つのバージョンへと《堕ちる》ことで、錯覚によって《目の当たりにしている非日常的光景》を《実際に予感可能なもの》として感じることができるようになる。このような点において、「からだの錯覚」は「優れたフィクション」と同様の機能を持っていると小鷹は書いている。
《僕の考えでは、映画に限らず優れた芸術作品は、現実と虚構を同一の地平で編み直そうとする精神に満ちている。特定の物語によって心打たれる経験とは、まさに現実が「こうであったかもしれない現実の一形態」に堕ちる感覚に他ならないのではないか。》
そうそうそうそう、まさにそれ、と言いたくなる記述だ。現実が可能な一バージョンへと格下げされることで、現実が変わるということを《予感可能なもの》とする。
《(…)「からだの錯覚」を芸術的装置と等価な地平で語り直すことは、「物語なき自己への介入」を物語的に語り直すことなのだと言えるかもしれない。》
そのようにして『パラサイト』と「からだの錯覚」が交錯してなされる記述は、(このような言われ方は不本意かもしれないが)ぼくは精神分析に近しいものであるように感じられた。とはいえ、精神分析には今やあまりに手垢がつき過ぎている。たとえば、フロイトもラカンも一切参照することなしに精神分析的な知を実践することはできないだろうかなどと、不遜な夢想をすることがあるが、小鷹の記述を、そのような可能性の一つとして読むこともできるのではないか。