⚫︎小鷹さんは、『セザンヌの犬』において、ほとんど似たような要素が、異なる場面、異なる人物、異なる作品すらも跨って、《全く悪びれることなく》使い回されているという点を指摘し、それを「ご長寿早押しクイズ」につなげている。ご長寿早押しクイズでは、回答として、ある固有のワーディングが、日時を跨ぎ、問題を跨いで反復されたり、異なる回答者間でこだまのように反復されることすら頻繁にある。しかもその事実は、回答者である「ご長寿の方々」には、全く自覚されていない、と。
(小鷹さんの「ご長寿早押しクイズ」への関心は、『身体がますますわからなくなる』で書かれる「集団フリーシャッター課題」と、「自由意志が外からやってくる」という感覚において共通しているように思う。)
小説の「作者」であるぼくは、ここで挙げられた「ご長寿」の回答者たちと同じくらいに無自覚だとは言えず、ご長寿の方々よりは自覚的であり、操作的であることは否定できない。しかし指摘された通り、この感じに近い感覚は確かにあると自分でも思われる。『セザンヌの犬』という小説集では、「目が覚めたら海岸にいて、クレーンに吊られている板が見えた」という、ほとんど同じ場面が二度現れるが、これは意識的に反復したのではない。自分が過去に同じ場面を別の小説に使っているということをすっかり忘れていて、「偽日記」に置かれている文章を「発見」して、これは新しい小説の冒頭たり得るのではないか、と思って使った。本になることで、ゲラを読み返していて、「あ、これ前にも使ってたやつだった」と、そこでようやく気づいた(でもまあ、結果的にそれもアリだな、と)。そのような事件(というか、たんなる失策)も含めて、この小説はできている。けっこう神経質に制御している部分もあれば、ガバガバに抜けているところもあると思われ、それらが相まってこの小説の運動を作っていると思われる。
(基本として操作的だが、そもそも意識は穴だらけであり、どこに「どのように偶発性が入ってくるのか」を事前に予測できない。)
(操作的という言い方も微妙で、前の文を書いている自分には、次の文を書いている自分が予測できない、という状況になるように、できる限り努力して書き進める。)
⚫︎《糞便、排便、小さな人間、小さな動物、というモチーフがたくさん使われている。》
意識的なレベルでは、「糞便」には三つくらいの機能(という言い方はちょっと違うか ? )を考えて(というか、感じて)いた。(1)人体を「管」としてみるような、トポロジー的な見方の強調。内側と外側との反転可能性の提示。(2)小鷹さんが指摘する通り、「自分」という制御系からこぼれ落ちてしまうが、まったくの別物ではない「半自己」。ここには「恥」という感覚がまといつく。(3)外からの刺激ではない、内側からくる刺激としての「内臓感覚」の顕在化。この点は、『身体がますますわからなくなる』の「におい」と「腸内環境」の話とつながるかもしれない。
「小さな人物」にかんしては、2009年から2010年くらいの時期に、テレビで芸能人の多くが「小さいおじさん」について言及していて、なぜかぼくはそれにすごくハマってしまった。今はまったくテレビを観ないので、「小さいおじさん」話がその後どうなったのかは知らない。
⚫︎《人間(観測者)のいない世界で、もの同士が些細なインタラクションを起こす》が、《なぜ、それを「わたし」は記述できるのか》。
これをぼくは、視点の問題というより、言葉の問題として考えている。たとえば、「今、わたしが向かっている机の引き出しの中で、赤インクのボールペンのインクが一瞬だけ蛍光イエローになって、すぐに元に戻ったが、それをわたしは知らないし、知っている人間はこの世界のどこにもいない」という文を、「言葉」では難なく書けてしまう(そのように「断言」してしまうことができる)。あるいはもっとありきたりな例として、「わたしは無意識のうちに右手の人差し指で右の頬を擦った」と書くことも簡単にできる。しかし、難なく書けてしまうこの文を、人が読んだ時、その人の頭の中で何が起きるのか。その人の身体に何を起こすことができるのか、そこにどんな時空間が立ち上がり(あるいは解体され)得るのか、ということの方を考えている。このような表現は「言葉」によってしかできないように思う。
言葉ではないが、似た例として新海誠の『ほしのこえ』がある。この物語世界では、地球から遠く離れた場所で戦っている女の子の世界と、地球にいる男の子の世界とが、平行モンタージュのように並置される(「並置される」ことによって意味が生まれる)。しかし、相対性理論が正しいとすれば、このふたつの世界を同時に(そもそも「同時」って何なのかがわからなくなるわけだが)観測できる主体は「この宇宙」の内部には存在しない。しかし「作者」は、いとも簡単にこのふたつの場面を繋げてしまえる。重要なのは、この二人を「誰が観ているのか」ではなくて、(この宇宙では)あり得ないこの接合によって何が生まれるのかということだと思う。
⚫︎《節操のないトランジッション》。
小鷹さんによる小林椋の作品評。
《(…)今作の一部を含め小林椋の多くの作品では、ディスプレイそのものの動きとそのディスプレイに映し出される光景の中の動きが、互いに無関係に、したがって印象としては極めて無防備に交錯する。それはまるで、自らの背後に意図せずして貼られてしまった映像に、ディスプレイ自身がまったく気づいていないかのようである。》
そうそう、この感じ、という感じ。この時期の小林椋の作品にはとても強く惹かれるものがある。