●残雪が面白い(ぼくが読んでいるのは、河出書房から出ている世界文学全集の『暗夜/戦争の悲しみ』だ)。残雪の小説には「全体」という概念がないかのようだ。というか、「全体」がなりたたないように書いているように感じられる。例えば「痕(へん)」という小説は、読み終わった後に話をあらすじ的にまとめるのならば、痕という主人公を中心とした一種の芸術家小説のようなものとして解釈できるし、道具立て(むしろや、鎌や、裏山、契約書、鈴の音等)や、主人公を巡る人物たちの配置(老人-鍛冶屋や、買い付け人、景蘭、おかみ等)はむしろ分かり易くアナロジーを読み取らせるために仕掛けられているかのようだ。しかし、実際に読んでいる時の感触は違って、一見分かり易くアナロジー的だから、そんなものかと思っていると、話が妙な方向へとずれ込んでゆく感じにとまどう。メガネを取りにゆこうと立ち上がって、途中でトイレに寄ったらそのことを忘れてしまい、トイレの脇の本棚の前で目にとまった本をパラパラ読んでいたら、大きめの地震がきて、あわてて外へ飛び出したら、何年も会っていなかった別れた恋人とばったり会って、積もる話もあるからお茶でもしようと駅に向かう途中で、なにやらもめている集団の仲裁をしようとしたらいきなり刺されて、その傷は大したことはなかったのだが別の重大な病気が発覚して、みたいに、「〜したら」で着地点もなく流れてゆく。で、最初のメガネはどうなったの、というか恋人はどこにいっちゃったの、みたいな。で、その話はどこに収束してゆくの、という感じなのだ。
ただ、そのようなたんにとりとめのない話とは違って、同じ人物や響き合う細部が何度も反復的にあらわれるので、一見、まとまった感じがするし、事後的に図式化して、アナロジーを読み取ることも可能にみえる。例えば、最初の方に出て来る、鎌をもって主人公を威嚇するやたらと凶暴な老人が、後に、鍛冶屋として再びあらわれ、その人物は最後の方では、主人公の「死」そのものを象徴する影のような存在となって、だから読み終わった後に振り返ると、この老人が最初から主人公の影のような役割であったかのように「まとめて」しまいがちなのだが、しかし、最初に出て来た老人の理不尽な凶暴さの感触は、最後の方になって「影」のようになる老人とはまったく違っていて、これがたまたま同じ人物ということになっているという理由だけから、この二つの異なる感触を一つのものとして「まとめる」ことは本当は出来ない。この小説の不穏さは、何度も反復的に主人公の前にあらわれる、鍛冶屋や買い付け人や景蘭といった人物たちが、そもそも同一人物なのか(同一のものの回帰なのか)があやしいという点にある(お茶屋のおかみの「主人」などは毎回別の人物であるし)。というか、そもそも、この小説の中心に常にいる痕(へん)という主人公の連続性や同一性があやしい。ある人物(の像)が文章が書かれる前にしっかりあって、架空であろうと実在であろうと、書かれるより前に存在するキャラクターが文によって描写さていれるのではなくて、そのような前提抜きにいきなり書かれ、一行書かれるたびに、その像が、動いて、ぶれて、増殖さえしてゆくようなのだ。増殖というのはややおおげさかもしれないが、何度も反復的にあらわれる人物や細部(主題)が、あらわれる度に前のものからずれ込んでゆく感じがあり、例えばバリエーションというのは、ある同一の感触が根にあって、それが少しずつ変化してゆくのだが、この小説では、その「根」の部分こそがふらふらしている。というか「根」が本当にあるのかどうかの確信がもてない。だから、事後的に割りと容易に図式化できそうなのにも関わらず、読んでいる時の感触がとりとめなく、全体を見通せない細部のひとつひとつを、拠り所なく丸腰で受け止めるしかなくて、それがすごく不穏な感じに繋がるのだと思う。
時間と空間というのは、この世界のひろがりの連続性を保証するものだし、遠近法は、その空間や時間の広がりのなかで、自分がいる位置を確保するためのものだろう。つまり、全体性とまではいかなくても、ある一定の秩序だったひろがりを事前に予測させ、その範囲での世界の恒常性を信頼させる。あるいは、ある調子(トーン)というのは、その調子が(いつかは変化するかもしれないが)ある一定の範囲内では持続することが予測され、それがまた、世界の同一性や恒常性への信頼を生む。遠近法も調子の持続も、ある一つのフレーム(作品)という全体性を保証するものとしてはたらく。というか、「作品という全体性」があるのだという約束を、事前(作品を読み終わるより前)にとりつけるものとして作用する。しかし残雪の小説ではそれが成り立っていない、あるいは、それが成り立っているという信頼を充分にはもてないようになっている。だから、細部に直に当たるようにして読むことになる。だがしかし、容易の「全体」を把捉できないようになっているにもかかわらず、それでもなお、その捉えきれない全体の捉えきれなさによって、作品全体がなにごとかを語っているようでもある。