●『ひそやかな花園』と『対岸の彼女』(角田光代)を読んでいた。分かり易く人を惹きつけつつも、通俗的になりそうなぎりぎりのところで決してそっちには転ばない「粘り」のような確かさがあるように思った。ファンタジー(というか、原-幻想のような決定的な過去の感触)を現実−現在のなかに着地させてゆくときに、そのファンタジー(半ファンタジーとしての過去と言うべきか)を現実のなかに解消してしまう(ファンタジーを現実化する)のでもなく、ファンタジーを現実のなかに実現(発見)する(現実をファンタジー化する)のでもない、そのどちらでもない絶妙なさじ加減が、初期の『まどろむ夜のUFO』(これも読み返した)から一貫しているように思われた。
『対岸の彼女』の、最後に出てくるナナコの手紙のところで、うわっ、これをここにもってくるのか、と、思わず泣いてしまった。小説に限らず、ラストに「決め」をもってくるような作品はあまり好きではないのだが、これはやられた。女性漫画家とかが描きそうな、よくある話と言えばよくある話なのだけど(ナナコという登場人物は、それこそ魚喃キリコみたいな「絵」としてしかイメージ出来ない)、ファンタジーとリアリズム的なものの混じり方が独自だと思った。ナナコと葵が家出した(というか、家に帰らなかった)後の展開は、やっぱりちょっと通俗的にドラマチック過ぎる気もするけど、最後にはちゃんとリアルな感触に戻って来る(最後にナナコのリアルな像が結ばれる)。最後にあの手紙を読まされたら小説全体を納得するしかないでしょう、というか。あと、つづけて読んだので、『対岸の彼女』の小夜子の夫婦関係と『ひそやかな花園』の樹里の夫婦関係が頭のなかで混じってしまった。
『ひそやかな花園』は、一見、謎によって物語を引っ張ってゆくようにみえて、実は謎の部分はそれほど大したものではなく、その先こそが重要だというつくりになっていて、これもまた、ある種の通俗性をまといつつ、それだけでは決して済ませない奥行きを作る感じがある。謎めいた雰囲気で引っ張ってゆくうちに登場人物を読者になじませて、なじんだ頃に謎よりも先に行くというつくりは、ずるいと言えばずるいとも言えるけど。
ここでも、ずっとひっかかりつづけている幻想−過去の感触を、どのように現実−現在へ着地させてゆくのかが問題になっているように思う。そしてそれを、半ば幻滅やあきらめとして、半ば希望や変化のきっかけとして描く感じに独自の感触がある(過去と現在の関係、というか、過去に対する現在のあり様に『対岸の彼女』と同質のものを感じた)。この、どちらにも転ばない粘りは、禁欲的な感じるさえする。ただ、つくりが大仕掛けである分、やや不自然な操作性を感じてしまったり、『対岸の彼女』に比べればあまり充実していない細部があったりするようにも思えた。
あと、両作とも、出来事がいつごろ起こって、登場人物がいつごろ生まれたのかがだいたい分かるように書かれている。『ひそやかな花園』に年代が書き込まれているのは、医療技術のこととかがあるから分かるけど、スタンダードな話ともいえる『対岸の彼女』もまた、具体的な年代は書かれないものの、登場人物の世代は(おそらく意図的に)分かるようになっている。おそらくそこにこの作家の、過去に対する現在の関係のあり様が表れている気がした。なんというか、それ自体としては浮遊した、確定出来ない過去に対して、現在の側から遡行的に年代を与えることで、現在を確保する、というような。
「まどろむ夜のUFO」も、「弟との過去」と「主人公の現在」の間に、半過去、半幻想のような不気味な感触で「弟の現在」が入り込んできて、それによって主人公がみずからの現在を再組織化するような感じ。