2019-08-04

●『待ち遠しい』(柴崎友香)を読んだ。面白いがとても難しい。これはもう一回読もう。以下、きわめて大雑把な印象のメモ。

『公園へ行かないか、火曜日に』も、三回くらいは読んだはずだけど、うまく感想が書けずにいる。

『待ち遠しい』は、現場レポートのような感触をもつ「公園へ…」とは違って、直接的な時事ネタのようなものは出てこないし、小説としてとても練られた「かたち」をもっている(大御所感さえ漂うように思う)。しかしそれでも、ここにはとても直接的に、なまなましく「現在」が反映されているように感じられた。

(ここで「現在」とは、まさに現在の日本や世界の具体的なありようのことだ。ここではあえて「現実」という言葉は避ける。)

『待ち遠しい』に出てくる三人の話の、つづきをもっと読みたいと感じる。たとえば、沙希の子供が小学生くらいになった時の三人(とその周辺)の関係がどうなっているのか、など。でも、仮にそれが書かれるとしたら、この小説に刻まれている「現在」から十年経った後の、十年後の「現在」が直接的に反映されている必要があるように思われる。つまり十年待って、その後に書かれるしかないのではないか。

おそらく『待ち遠しい』では、「現在」が直接描かれているというよりも、「現在」は作品の存立基盤として、つまり「図」としてというよりも「地」としてあり、そのような地としての「現在」に強く規定されているように思われる。なまなましい「現在」の反映とは、そのような意味でだ。

だからそれは、「現代」を描くというよりも、「現代」のなかで(「現代」という規定を強く意識したしたなかで)書く、ということではないか。

(勿論、以前の柴崎作品もまた、現在のなかで書かれているのだが、その現在の組成が変わっている、と言えるのではないか。たとえば『寝ても覚めても』の舞台はあくまで「現在」だか、ここで描かれているのは「現在」というよりもっと普遍的な何かだと思う。だが近作では、なんというのか、登場人物たち一人一人にとっての現在よりも、より大きな「現在」が彼女や彼らを包み込んでいいて、彼女や彼らは---必ずしも当人が意識しているわけではない---大きな「現在」に規定されている。だが、その大きな「現在」が直接描かれるのではなく、それは個々の登場人物たちそれぞれを、それぞれのやり方で規定・拘束するものとして書かれていて、しかしそれら個別の問題の共通する地として---それらを遠く共振させるものとして---それらのさらに背後にある、何かを強いる力としての「現在」がかすかにみえてくる感じ、というのか。)

ごく表面的なところに注目するならば、過去の柴崎作品にはあまり登場しないような人物---沙希のようなヤンキー---が出てきたり、今までの作品で割合と希薄だった、社会的拘束のなかの個、家族的拘束のなかの個、経済的拘束のなかの個、という側面が強めに出てきているし、立場の違いによる対立的な構図も強めに描かれるところがあるというような点に気が行く。そしてそれらは、それぞれ個別的な問題であり、個別の来歴からくるものだろう。

でもこれらは、それ自体が書かれることが目的であるというよりも、《「現在」という規定---図としてのではなく地としての---を強く意識したなかで書く》ということの結果として、出てきたものなのではないかと感じられる。

(地としての「現在」は刻々と変化してその流れの内部に書き手も語り手もいる。たとえば『寝ても覚めても』では、いきなり物語の時間が十年飛んでも問題はないが、『待ち遠しい』においては、十年後の物語が書かれるためには、地としての「現代」に十年分の変化があった上で、「そのなか」で書かれる必要がある、というように感じられる。)