08/01/29

●『白暗淵』(古井由吉)を、ようやく最後まで読む。「潮の変わり目」で、死そのものにぎりぎりまで近づいたその世界は、「糸遊」では、すれ違うようにして死が身体のなかをすっと通り抜け、最後の「鳥の声」では、「潮の変わり目」のラストで予感された「春」が訪れ、登場人物の「男」は四十歳過ぎという頃まで若返り、最後には梅の香りと重ねあわされた、「女の肌の香」がたつところでしめくくられる。
とはいえ、この四十過ぎの男は、現在四十歳ということではなく、人生の終わりちかくから(あるいは「死」の側から)眺め返され、思い出された「四十歳」であり、それは、「男」が四十代であるから、ある生々しい「春」の感触が訪れたというより、ある生々しい春の感触の訪れによって、四十代が過去-記憶から「呼び出された」という感じのように思われる。
●最後の「鳥の声」で、「男」が、三十前に同棲していてその後別れた「女」と、十二年ぶりに街中でばったり再会して、その後しばらくした大晦日の場面。
《大晦日の夜に男は更けてから家でひとり酒を呑んで、丁度に酔ったところでもぐりこんだ寝床の中から、除夜の鐘の鳴る頃からこの界隈の産土神へ詣る人たちの、凍てついた路に響く足音へ耳をやっていた。男女子供の別ばかりでなく老若のほども足音から聞き分けられる気がした。そのうち人通りがたまたま絶えて、足音の去った表通りのほうから、流れ集まった人の群れて行くのが風の止んだ夜の潮の音のように伝わり、なにやら自分はもう生涯を無事に尽くした後のような、不思議な安堵感が満ちあげ、女と別れた時に自分はもう済んでいたのだ、女もそのことを見届けて安心して帰ったにちがいない、と睡気の中から思った時、傍らに寝ていた女に肘をつかまれた。》
映画では、フレームの外のことは分からないし、小説でも、書かれていないところがどうなっているのかは分からない。しかし、「ひとり酒」と書かれているのだから、家で一人で呑みながら女のことを思っているのだと読んでいたのに、いきなりそこに「傍らに寝ていた女」があらわれて驚く。一体この「女」は、いつからそこにいるのか。そしてこの「女」は、十二年前に別れて最近再会した「女」なのか、または別の「女」なのか。合理的に考えるのならば、酒を呑んでつらつら考えているうちに、いつの間にか眠りのなかに移行していて、男が肘をつかまれ、この引用部分の後で、「抱き寄せ」て「抱き込み」もするこの「女」は、夢のなかにいるということになろう。
とはいえ、この場面を読んでいて得られる感触は、たんに、女のことを考えているうちに、女の夢をみた、という単純なものではない。この「女のことを思い出している男」の存在(現在)がそもそも、時間の外にいる「話者」によって「思い出されているもの」であるような感触があること、そして、この男がもつ「生涯を無事に尽くした後」のような「不思議な安堵感」は、四十過ぎの「男」のものというより、超越的な位置にいる「話者」の気分が「男」へと流れ込んでいったかのように感じられること、そして、ただ「女」とだけ書かれたこの女の存在が、顔のみえない、匿名的な感触をもち、つまり具体的なイメージを結びにくいため、十二年前と現在との見た目上の年齢の違いがイメージされにくいこと等によって、時間があやふやとなり、この場面が、十二年前のことを思いつつ酒を呑んでいる一人ぐらしの現在四十過ぎの男の場面であると同時に、現在女と住んでいる三十前の男が「酔いの感覚」のなかで女を抱きながら、十二年後に一人でいる自分の姿を予感している場面でもあるかのような感触も漂う。つまり、これら全てを思い出している超越的な「話者」の記憶のなかで、この二つの時間が相互に照らし合わされつつも、混じりあっているような感触こそが、つよくたちあがる。このような記憶の混濁のなかで、「春」が訪れるようだ。