08/01/30

チェルフィッチュの『フリータイム』の稽古を、すこしだけ見学させて頂くことが出来た(コネで)。部外者がいきなり入り込んだのだから当然だけど、最初は、そこで「何が問題にされているのか」がよく分からなくて、しばらくはポカンと眺めていた。岡田氏が俳優に対して話していることも、何のことを言っているのかよく分からない。しかし、おぼろげにでも見えて来るにしたがって、どんどん面白くなっていった。
岡田氏の言葉は、具体的な動きのへ指示とかではなく、俳優が動いている時に感じる感覚や、動きをつくるイメージに対して介入するような言葉に聞こえた。動きは、外側から決められるのではなく、俳優の内的な感覚に作用する言葉によって、俳優自身から生まれてくる感じ。「今、途中で膝が曲がったよね、その曲がった瞬間は意識出来た?、その瞬間が意識できたら、それをもうちょっと大きくしてみてもいいかもしれない。」このような指示は、膝をもうちょっと大きく曲げろ、というのとは異なるようだった。実際、次の動きで、俳優は必ずしも膝を曲げるとは限らない。しかしその時、下半身の動きはあきらかに違ったものとなる、みたいな感じだった。このような指示と、俳優の中の何かとが上手く響いたような時に、動きは劇的にかわってゆく。いや、動きそのものの変化は小さなものなのだが、その僅かな違いで、動きがぐっと面白くなったり、つまらなくなったりする。そこはほんとに、ちょっとした違いなのだった。同じ場面を、何度も何度も繰り返しつつ、そのような僅かな違いを、しつこく確認してゆく。それなりにこなれて形になってきても、動きは振り付けのように固定されることはなくて、あくまで俳優が動いている時にイメージしている感覚(によって動きが導かれること)こそが問題にされているようだった。このような細かい作業の執拗な繰り返しのなかから、「既にあるものの価値」に寄りかかるのではない何かが、すこしずつ引き出されていくのだろうと思った。
テキストと動きの関係も、とても微妙で面白かった。ある言葉が、俳優の動きの面白い展開を誘発しているようにみえたり、あるいは、ある説明が、俳優の動きをどうしても縛ってしまったりもするようにみえたりした。そこをどう導き、どう動かしてゆくのかというところは、それぞれの俳優と岡田氏との間に築かれた関係の違いによって様々なアプローチがあるようにみえた。