『エンジョイ』(岡田利規)4

岡田利規のテキスト(戯曲)は、過去にあった出来事を、俳優が観客(読者)に向かって語りかけてくる、というような形式で書かれる。だから、俳優が誰かを「演じる」としても、それは例えば、友人と別の友人について話している時、つい、その話している対象である人物の口調や仕草が染ってしまう、というようなもので、一人の俳優が一人の登場人物として舞台に立つのではない。俳優は、俳優であるというよりナレーターという位置に(テキストの上では)置かれる。(岡田氏の書くテキスト=戯曲が、小説のように読んでも違和感なく面白いのは、つまりそのように、小説のように「過去」を「語る」という形で書かれているからだろう。)俳優が役を演じるのではなくて、「語る人」として出来事をあくまで「語っている」のだという形式によって、演劇特有の現前性の押しつけというか、ある種の「くささ」、この台詞、この動作は、どうみても「観客への効果」を狙ってなされているにも関わらず、あたかも観客などいないかのように進行する嘘くささ、を、剥ぎ取るようなものとなっている。しかし、この、俳優が観客に向かって語りかける、という有り様が、そのパフォーマンス(『目的地』)をテレビ中継で観た時に、とても気になった。つまりこれは、観客を、喫茶店で向かい合っている友人のような位置に置く、というか、そのような位置に入り込めない観客は、そのパフォーマンスから排除されるのではないか、と。喫茶店で向かい合っている友人というのはあまり正確ではないかもしれなくて、まったく知らない人というわけではないが、細かい事情や文脈を呑み込めているわけでもない、友人の友人くらいの距離感にいる人に対して、事の顛末を説明する、というくらいの感じだろうか。でもこれはあまりに「内輪」過ぎるのではないか、「内輪の空気」を観客に対して強要してしまうのではないか、という疑問があったのだ。
しかし実際にパフォーマンスを観てみると(『エンジョイ』)、俳優はほとんど観客に向けて語ってなどいないと感じた。確かに、観客に向かって語っているかのような言葉が話されるし、マイクを使うという仕草など、まさにそこに「観客がいる」ことを前提として、そこに語りかけているかのようであるにも関わらず、俳優は孤独に、自らの動きを動いているという感じだし、口から出る言葉もまた動きと同様のもの、つまり、「言葉を語る」という行為を「動いている」という感じで、つまり喋ることも動くことも、直接観客に向かっているのではなく、そこから切り離されている。テキストの次元では(そしてその「内容」の次元では)、それは観客に直接語りかけているように書かれていながら、しかしその言葉が俳優によって発せられる時は、それ自身の身体の「動き」の秩序に従って制御されているから、観客からは切り離された自律を獲得している。(例えば、観客に向けて直接語りかけるような「お笑い」のパフォーマンスは、自らの行為に対する客の反応を受けて、その態度を柔軟に変化させる。受けたネタはアドリブで発展させ、そこをもっと掘り下げ、受けないネタはさっさと流す、という具合に。つまりその空気を読む敏感さが舞台と客席との一体感を生み、場を「内輪」化させる。しかし、一見観客に向かって話しているような言葉を発しながらも、俳優が観客の反応にまったく揺らぐことがなければ、それは実は観客のことなど配慮していないということであり、「動き」や「喋り」は自律した次元を獲得する。俳優の動作が、まるで振り付けられたダンスのようにみえる、というのはそういうことなのだろう。)
岡田利規はとても危険なことをやっていると言える。テキストの次元での語りの形式や、その内容(フリーターについて)、そしてそこで喋られる言葉(若者が実際に使っているような語彙)、そして動作の素材を日常的なものから採用することなど、これらはすべて場を「内輪」化させるような傾向を持つ。これこそが、「わたしたち(ぼくたち)のリアルだ」みたいな、世代の代弁者みたいな位置にはまりこみやすい危険をあえて冒しているようにみえる。(場が内輪化されれば、伝達効率は良いが、強さのない脆弱な作品にしかならないだろう。)そしてそれを切断し、場を自律させ「離陸」させるのは、テキストの構造の複雑さとともに、俳優たちのパフォーマンスの質や強度にかかっているのだろう。俳優たちのパフォーマンスが、自律した次元を生成出来ないような(切断の強度をもたないような)弱いものになれば、場は即座に「内輪」を指向するもの(観客が「友人」のような位置にいることを「前提」とするもの)になってしまうだろう。そしてこの「危うい(微妙な)」地点に立ちつつも、「内輪」の方へは流れていかないようにする、その踏みとどまる粘りこそが、リアリティを生んでいるのだと思う。