『エンジョイ』(岡田利規)3

●ぼくは演劇をあまり観ない。これは、だから演劇についてちょっとトンチンカンなことを言ったとしても大目に見て下さい、というエクスキューズではなくて、演劇は嫌いだ(面白くない)というような、ある程度積極的な価値判断を伴うような意味のことだ。何というか、(現代演劇の「文脈」みたいなものも含め)演劇を「演劇」として成り立たせるために(無意識のうちに)受け入れなければならない種々の前提のようなものを、ぼくはすんなりと受け入れることが出来ない。ぶっちゃけ、「くさい」という感覚をどうしても捨てることが出来ない。ぼくは『エンジョイ』をとても面白いと思うのだけど、それでも(一昨日にもチラッと書いたけど)、その始まり方、一旦照明が落とされて暗くなり、かなり大きな音量で音楽がガーンと鳴って、スクリーンに字幕が映し出され、「さあ、ここから始まりますよ」という感じで始まるのには、軽くがっかりしてしまった。こういう始まり方(時間的なフレームの切り方)は、作品の内容を裏切ってはいないだろうか、と。
ぼくが『エンジョイ』から「くさい」という感覚を感じないとしたら、それは決して、現代のリアルな若者の言葉が使用されていたり、日常的な仕草を素材として動作が組み立てられていたりするから、ということに依るのではない。それは勿論「内容」ということもある程度はあるけど、主に作品を「作品」として成り立たせる時のフレームの切り方が「くさくない」ということなのだ。作品が、どの程度現実的な条件と繋がっていて、どの程度そこから切り離されているか、ということの度合いと言えばよいか。作品は、あくまでリテラルに現実的な条件のなかで成立するしかないし、現実から繋がっていなければリアルではないのだが、しかし、それが現実的な環境のなかに埋没してしまっていたらそれは作品とは言えず、そこから何かしらの形で「離陸」していなくてはいけない。そして本来、その離陸の仕方は、それぞれの作家、それぞれの作品によって、その都度発明され、発見されるべきもので、その都度異なるはずなのだ。しかし現実問題として、個々の作品はある程度そのジャンルの歴史性のようなものに寄りかかって存在している。(制作も、ある程度はそれを拠り所にすすめられる。)特定のジャンルにおける「文脈」や「お約束」を、無反省に「受け入れ」ようと、「あえて」外そうと、新たな「隙間」をみつけてそこを狙おうと、いずれにしても「文脈」や「お約束」に依存していることにかわりはない。そして、そのような文脈に対する依存性が高ければ高いほど、(確かに伝達効率は良いけど)その作品は「弱い」ものになるとぼくは思う。そうではなく、その作品が生成される過程のなかで、(偶然も必然もひっくるめて)その作品固有の一回きりの「離陸」のポイントがその都度(無限定な現実のなかで)探られ、発見され、それが「文脈」や「前提」に頼っている度合いが低ければ低いほど、その作品は「強い」ものに成り得る潜在的な力を秘めるだろう。フレームの切り方がくさくない、ということは、つまりそういうことなのだ。出来上がった作品を、「既に出来上がったもの」としてみるならば、それはどんなものであっても、既成のパターンのどれかに整理することは難しくない。でも、それは、何かを求めようとする「ある動き」としてあり、その動きがその都度その時にふさわしい「離陸」の有り様を探った結果として、ある「形」に(くどいけどあくまで「結果」として)かろうじて着地したものなのだ、という風にみれば、それぞれの作品において、その都度ギリギリの危ういところでフレームが成立しているのだということがみえてくるはずで、そのフレームのあやうい揺らぎこそがリアルなのだと分るはずなのだ。(フレームとはつまり、作品における離陸と着地の有り様のことだと言える。)