『エンジョイ』(岡田利規)2

●『エンジョイ』についてもう少し。おそらく『エンジョイ』は、テキストの次元では、複数の視点によって、ある地域なり、ある問題なりを立体化してみせるという方向では書かれてなくて、(実際に「書かれた」時の作業の手順として、どの場面が最初にあったのかはわからないけど)最初に提示されたひとつの場面が、分析的に吟味され、その細部から別のエピソードが発展的に生まれて育ってゆき、煮詰まってゆく、という風になっていて、つまり、最初の場面での、三十代の男性フリーター二人と、大学を出たばかりの新人女性フリーターとのやりとりのなかに、すくなくとも三幕までで展開されるエピソードの「種」はすべて出そろっている(だから全てのエピソードが因果律によってきれいに繋がっている)。それがこの作品の、分りやすくてまとまった印象をつくっていると同時に、一幕から三幕へ進んで行くに従って、しだいに狭いところへ入り込み、煮詰まってくる、という印象を招いているように思う。社員や店長を含めた「漫画喫茶」というひとつの労働の場のありようを立体的に示すというよりも、フリーターたちの内面や不安のようなものの方を、深く探ってゆくという「狭い」方向があえて目指されている。確かに『エンジョイ』にも、三十代(間近)と二十代との視点の違いはあるし、フリーターの彼と派遣社員の彼女との視点の違いもある。しかしそのような彼等の関係性をもうひとつ別のところから相対化するような視点がないので、どうしても全体として「内輪」な感じがして、つまり「こちら側」と「あちら側」みたいな話になりがちで、作品が作品としての「動き」をつくることの出来るスペースを狭くしてしまっているように感じられた。でも、だからといって、例えば年配の俳優を連れて来て『アカルイミライ』の藤竜也のような人物を設定すればよいという事ではないだろうけど。岡田利規の面白さは、あくまでも「内輪」な空間でありつつ(そこに留まりつつ)、その中で、複数の次元を重ねあわせることで、「動き」が作動する(動きを作動させる)スペースをひろげてゆくというようなところにあるのだと思うから。しかし『エンジョイ』のテキストには、(別の)動きへと作動域を広げうるような潜在的なものがやや貧しくて、だから(おそらく)パフォーマンスする俳優も、テキストに基づきつつもそこから別の領域を開くような動きをみつけることが難しくて、ところどころで「言葉」そのものが強く(求心的に)出てきすぎるというような傾向を感じてしまった。(なにか、否定的なことばかり書いているようだけど、基本的にとても面白いからこそ、こういう部分が気になるのだ。)
●余談だけど、ぼくは新宿で施設警備のバイトをしていたことがあって、それは歌舞伎町の方だったので『エンジョイ』の漫喫のある場所とはちょっと離れているのだけど、ぼくは今、今後どんなにお金に困っても、「新宿」でそのような仕事をするのはまっぴらだと思っていて、つまりそれくらい、下層労働者から見た新宿は荒みきっていて、だから『エンジョイ』の舞台が新宿であることには、一定の意味はあるのかもしれないと思う。登場人物たちが働いているのが、例えば中野とか高円寺とか吉祥寺とかだったら、彼等はあそこまで追いつめられず、(中央線沿線独自の文化というか伝統が一応あるので)もうちょっと気楽にやれているのではないか。あるいは、彼等が演劇人だったりアーティストだったり芸人だったりすれば、周りにも先輩たちにも似たような人がいるので、多少は気楽にやれるかもしれない。気楽だからといって現状の悲惨さはかわりはしないのだけど、おなじように悲惨ならば、気楽な方がずっといいと思う。文化や伝統の力というのは、結局そういうようなものだと思う。(ここでも岡田利規は、文化や伝統の力を決して用いず、あくまで、貧しい語彙と貧しい動きのなかで何かをやろうとする、というところがまた、面白いわけだけど。)
●あと、気になったのは、映像というかビデオカメラの使い方で、ビデオカメラの映像が使われるところは、ちょっと単調になってしまうように思われた。ビデオカメラとスクリーンを使う事で、舞台の上に別の次元をもう一つつくろうとするのは分るのだが、例えば、二幕で、男性が遺言ビデオを撮影する場面は、エピソードとしてはすごくリアルだし、そこで書かれているテキスト(言葉)も充実していると思うのだが、しかしここでパフォーマンスとしての緊張感は、かなり下がるようにぼくには感じられた。(だからこそここでは、「言葉」ばかりが支配的な力をもってしまう。)バストショットで捉えられた力のないビデオ映像に、舞台上のパフォーマーの動きも引きずられてしまい(ビデオのフレームのなかにきっちりと納まる動きしか出来ないし)、それが結果として言葉を全面に押し出すことになる。もしこれが、ここでは言葉のみを聞かせたい、というような意図的な演出だとしたら、それはあまりに(括弧付きの)「演劇的」でありすぎて、つまらないのではないだろうか。あと、四幕で、二組のカップルのうちの一組が舞台の裏にいて脚だけしか見えてなくて、上半身はスクリーン上の映像で示される場面。ここでは、舞台上にいるカップルが主に動いている時はとてもいいと思うのだけど、舞台裏のカップルに焦点があたるようになり、舞台上のカップルが(彼が彼女の髪とかを触りつつ)そのスクリーンをしゃがんで眺めているところになると、スクリーン上の映像そのものの弱さがどうしても気になってしまう。このような空間的配置そのものは面白いと思うのだけど、映像そのものの力のなさが気になるのだ。おそらく俳優たちは、クローズアップやバストショットで何かを「語る」術をもっていなくて、だからここでもどうしても、舞台全体のテンションが落ちるように思う。(ある張りつめた感じをずっと持続しつつ舞台を見ていたのだけど、この二つの場面でだけ、軽く退屈した。)
●このように書き出すと、納得出来ないところがいろいろあるのだけど、繰り返しになるけど、そういう納得出来ないモヤモヤした感じまで含めて、『エンジョイ』はこちらの頭や感覚に対して、とても刺激的に作用するのだった。