『エンジョイ』(岡田利規)1

●昼過ぎてから起きて、メールのチェックをして、今日はラウル・ルイスの映画でも観に行こうかと思いつつネットで上映時間を調べていたら、急に、ああ、今、チェルフィッチュをやってるんだ(チェルフィッチュがやってるんだ、と言うべきか)、と思い出し、今日はそれを観に行こうと決めた。(チェルフィッチュではなくて、岡田利規・作、演出、ということらしい。http://www.nntt.jac.go.jp/season/updata/10000119.html)ぼくの行動にはだいたいそんな感じで計画性というものがなくて、この時点で当日券をチケットぴあとかで確保しとけばよかったのだけどそんなことは思い当たらず、まあ、行けばなんとかなるだろうと思って出かけて、初台の新国立劇場に六時ちょっと前についたのだけど、既に当日券は完売で、もし観たければ、確実にチケットがあるかは保証出来ないけど、キャンセル待ちの列に並んでくれ、ということだった。ぼくは、演劇はもとより、ライブ的なものを観に行くことが稀なので、キャンセルのチケットというのがどのくらい出るものなのか予想もつかなかったけど、まあ、並んでみることにした。ぼくの前には8人の人が並んでいて、そのうち一人が、余っているチケットを売りに来た人のチケットをゲットして抜けたので、前から8番目だったのだが、その後もキャンセル待ちの列はどんどん長くなって、余裕で二十人以上の列となった。なんとか、開演の五分前くらいにチケットが買えて、おかげで開演前にトイレに行く時間もとれて助かったのだが、ぼくの後ろにもまだ十五人くらいの人が並んでいたのだけど、あのあと何人くらいの人がチケットを買えたのだろうか。当たり前のことだが開演前の客席はかなりざわついていて、しかも、ほぼ中央に設置された舞台を客席が三方から囲うという空間構成で幕とかもなくて、「一体、演劇というのは、どのようにしてはじまるのだろう」という興味がちょっとあったのだけど、普通に、一旦照明が落ちて暗くなり、音楽がかかる、という、ベタなはじまり方で、ああ、やはり、こういう分りやすいフレーミングというか、普通の時間からの切断のようなものが必要なんだなあ、と思った。(いきなりバラバラと俳優たちが出て来る、というのをちょっと期待したのだけど。)
●『エンジョイ』を、簡単に感想が言えないような複雑な感じを抱きつつ観ていたのだが、乱暴に簡単に言ってしまえば凄く面白い。完璧に納得させられたわけではないにしろ、保留をつけたいところが多々あるにしろ、その複雑なもやもやした感じまで含めて、とても刺激的で面白いのだ。表現というのか、アート的なものというのか、言い方はどうでもいいのだが、ジャンルに関係なく、そのようなものに興味がある人だったら誰でも、今、チェルフィッチュを観ない手はない、というような刺激的なものが、確かにそこにはあるように思った。作品としてみると、題材のシリアスさにちょっと引っ張られ過ぎているような感じはしたのだけど。
●実際に観たのははじめたなのだけど、ぼくがいままで、戯曲を読んだりテレビ中継で観たり、あるいは岡田利規名義の小説を読んだりして感じていたチェルフィッチュは、拡散的で、大きな地域の限定はあっても、そのなかの複数の場所で起こった複数の出来事が、互いの関係が希薄なまま並べられることで立体化するという感じだと思っていたのだが、『エンジョイ』は、とても限定された空間の、とても限られた出来事(例えば漫画喫茶のスタッフルームでの一シーンとか)がまずあって、それが細かく分析的に掘り下げられることで、細部が膨らんでいって増殖してゆくという作りで(すくなくとも「テキスト」の次元ではそうで)、そのような作りのせいで、作品全体としてやや硬直した、ひろがりに欠けるような印象になっているようにも思えた。字幕や映像の使い方なんかも含めて、空間を拡散的に広げてゆくというよりも、ひとつひとつの事柄を掘り下げて行くという感じだった。(『エンジョイ』では、新宿という地域そのものは、それほど大きな役割はもっていない。)フリーターのおかれている現状、おなじフリーターでも、その世代間にある断絶、あるいは男女間の断絶など、そのシビアな内容は掘り下げられているのだが、漫喫にふと立ち寄ったサラリーマンの視点とか、あるいはそこの社員や店長(あるいは「ジーザス系のおっさん」)などの「立場の違う人」の視点は弱くて、点景的というか、風景のようにしか捉えられていないので、立体化が弱くて、ちょっと息苦しい。そのような内容を扱っているのだ、ということは理解できるので、これは批判ということでもないのだが、しかし、内容のシリアスさが、作品そのものの運動性のようなものを硬直化しかねない(硬直化させてしまっている、とまでは言い切れないけど)危険な感じを(特に二幕と三幕で)チラッと感じたということなのだ。
例えば、『目的地』で、これから子供を産もうとしている女性に向かって、男性が「こんな時代に子供を生むなんて、それ、どうなのよ」みたいな言葉を粘着的に延々と喋るところがあって、この場面には良い意味でも悪い意味でも求心的な「力」のようなものが働いていた。だが、これはあくまで男性のモノローグで、この言葉を女性はほとんど聞いてすらいなくて、この点でギリギリ、「抜け」のような、ある「深み」に入り込まない感じがあった。しかし『エンジョイ』の三幕で、女性の内面に深く入り込んでゆくような非常に詳細なモノローグが、いつの間にか男性との対話(というか「対立」)へと発展し、それが男性のモノローグへと移行して閉じられるという構造では、その求心的な力(あるいは弁証法的な力)があまりに強く働き過ぎていて、その求心性は、(日常的な動作をバラバラに脱構築して再構成した振り付けのような)俳優たちの身体所作や、(俳優たちが舞台の上でバラバラに存在しているような)空間構成とは(拡散的、開放的なものとは)、齟齬をきたしているのではないか。ぶっちゃけて言えば、ちょっと深刻になりすぎてないか、と思うのだ。その深刻さは、本当に誠実さなのか?、と。(これは作品の感想ではなく、内容に関するぼくの個人的な意見なのだが、三十を過ぎた人間ならば、「希望」などに頼らずに、その「生」を充実させてゆくやり方をみつける必要があるのではないか。あるいは、成熟した社会において「運動」のようなものは、目的=希望、つまり「明るい未来」や「革命」といったものなしにそれを組織できなければ、持続させることは出来ないのではないか、と思う。中年フリーターにとってシビアな現実は暗くて絶望的なものではあるが、その事実を事実として受け止めつつ、もっと楽天的に、場面場面で気楽にやってゆけるのではないか、あるいはそのためはにどうすればよいか、というような方向こそが、探られるべきだと、それこそがリアルなのだと、ぼくは感じている。)三幕では、一人の女性のモノローグが、女性二人、男性一人という、三人の俳優によって語られてゆくのだが、一人の女性が台詞を喋り、男性が舞台の隅で存在を消すように立っている時に、もう一人の女性が、軽くスロープになっている舞台を「にじり登ってゆく」ような動作をするのだが、この動作が、この場面の求心性に対して別の通路を開くような、ギリギリの拮抗をみせているように思った。しかしこの後、この女性が横になって坂を転げてゆくのは、求心性に奉仕してしまっているように感じた。
四幕は、単純にとても好きだ。誰でもが思うだろうけど、ここではじめて出て来るギャル風の女の子のエロさは素晴らしいと思う。男の子の脚の間に、自分の脚を入れたり出したりする動作など、身体的な接触はまったくないのに、なんでこんなにエロいんだ、という感じだ。ここで示されているのは「恋愛」という「希望」などではなく、たんに、若者はみんな色ボケでエロいんだよね、という事実で、で、それはフリーターとか正社員とか格差社会とか、そんなこととは関係なくエロくてすぐにまったりとしてしまうというわけで、それが単純に肯定されているのだと思う。(勿論、若者のなかにも「恋愛の不可能性」みたいなものの前に立ちすくんでしまうというタイプの人たちもいるわけだけが。)「中年フリーター」たちにとっては徹底的に悲惨な結末なのだけど、あまりに屈託のない若者たちのエロさの前では、それも「笑える」からいいか、と思う。(でも、実はこのギャル風の女の子はけっこう歳いってる、というオマケもちゃんとつくのだけど。全然タイプは違うけど、『三月の5日間』のミッフィーちゃんとかは、どんな感じだったのだろうと、ふと思った。)