東京ガスによる、ガスまわりの検査が午後からあり、部屋に居てそれに立ち会わなくてはならなくて、出かけるのが遅くなってしまい、帰ってくるのが『のだめカンタービレ』に間に合わなかった。(こういうのって、一人暮らしでフルタイムで働いている人とかって、どうしてるんだろうかと思う。明後日は消防設備の点検があって、また、部屋に居ろというのだけど。)ぼくは基本的に、ストーリーによって自らを支えている(読者を引っ張って行く)マンガにほとんど興味が持てないので(何巻にも渡って展開される話の「つづき」に対する興味が持続しないのだ)、あまりにも有名な原作のコミックは読んでいないのだが、このテレビドラマが面白いのは、なんといっても上野樹里のコメディ女優としてのセンスが素晴らしいからだと思う。ちょっと、ゴム製の人形を連想させるような、芯のない「くにゃくにゃした」立ち振る舞いで、うなぎのようにとらえどころがないのだけど、それなのに、ずるずるに流れてしまわないのは、その演技がある独自のグルーヴ感に支えられているからだと思う。(このグルーヴ感は、演出や編集によってつくられたものではないと思う。例えば、竹中直人が出て来ると、とたんに流れが滞り、退屈になってしまう。この人の演技は基本的に一人芸で、良くも悪くも、まあ、ほとんどの場合「悪い」方に出るのだが、周囲の流れとは関係がない。だからこそアクセントとしての「強過ぎるキャラ」を成立させられる、とも言えるのだが。)ぼくはテレビドラマをあまり観ないので、知っている例が少ないのだけど、その人の存在によってドラマ作品そのものを支え得るようなコメディ女優といって思い出すのは、『ケイゾク』の中谷美紀くらいだろうか。中谷美紀の場合は、そのあまりに美し過ぎる容姿のインパクトに多くを負っているところがあると思うのだが、上野樹里はむしろ容姿は地味であまり印象が強くないことが、その「動き」の自由さを保証している感じがある。ただ、ぼくは上野樹里の出ている映画をスクリーンで観たことがないので、このグルーヴ感がスクリーンサイズでも成立するものなのかどうかについては、ちょっと保留したいけど。(あと、これだけ素晴らしい上野樹里に「食われ」ていない玉木宏もなかなかのものだと思う。上野樹里玉木宏の声のコントラストとかもいい感じ。)
ニキータ・ミハルコフ機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』をDVDで。12歳前後の頃に、自分のまわりにある当たり前の環境とは別の世界があり、自分のまわりにいる大人たちとはまったく別のことを考えて生きているような人たちがいるということを知らされるようないくつかの「作品」にたてつづけに出会ったことがあって、この映画もそのうちのひとつ。確か、NHKの教育テレビで放送されていたのを偶然に観た。しかし、教育テレビでやっているような映画を「たまたま」観るなんてことはあまり考えられないので、事前にこの映画に関する何かしらの情報をもっていたのか、それとも、「そういう映画」をわざわざ好んで観るような変なアート指向みたいなものが、既に当時からあったのだろう。「キネマ旬報」とかは読んでいたし。(ぼくの育った周囲には、「芸術」などを好むような文化的な環境はまったくなかったので、「芸術」は物心がつく頃に、サブカルとして、サブカルと共に、「今、ここにある環境とは異なるもの」として、ぼくのなかに入って来た。そいうい意味でぼくは典型的な「ポストモダン」な育ちなのだが、結果として、今の自分のなかに残っているものの多くは、「芸術」なのだった。)この映画をはじめて観た時の感想は、凄いものを観たという興奮ではなく、ああ、こういうの好きだ、という感じだったと思う。しかし、チェーホフの原作による、人生の盛りを過ぎた人たちのペシミズムに満ちた群像劇であるこの映画のどこを、小学生だった自分が気に入ったのだろうか。おそらく内容的なものではなく、限定された空間のなかに、様々な人物が集まって来て、複雑な関係がごちゃごちゃと展開する、というような形式が、既に当時からぼくの好みだったのだろう。今、改めて観ると、「ミハルコフがチェーホフを使ってルノアールをやろうとしているのだけど、ルノアールの真似なんか、そんな簡単に出来るはずないじゃん」という映画で、映画としてそれほど素晴らしいというものではない。(大勢の人物がごちゃごちゃにならず、きちんと交通整理が出来ているという程度には「出来がいい」ところが、つまらない。)それでも、自分自身の特権的な時期に衝撃を受けた作品にはどこか愛着があり、嫌いにはなれない。この映画の面白いところは、ミハルコフやルノアールに由来するのではなく、チェーホフに由来するものだと思われ、途中、映画というメディアによって、一瞬、チェーホフヴァージニア・ウルフ化してるんじゃないかと思える場面もある。