2022/03/14

ブレッソンのように、純粋にシネマの可能性を追求するという方向もあるのだが、一方で、演劇が映画(映画のカメラ)に出会うことによって生まれる新たな時空のあり方もある。初期の大島渚長回しはそういうものだと思うし、昨日の日記で書いたアレクセイ・ゲルマン『わが友、イワン・ラプシン』も、演劇的でポリフォニックな演出が、(舞台上ではなく、一望できない現実空間のなかに置かれた上で)映画のカメラの狭いフレームによる限定性と継起性へと変換されることで生まれる特異な時空という感じがある(とはいえ、クライマックスと言える犯人逮捕の場面は、それだけでは説明がつかない)。アレクセイ・ゲルマンが実際に演劇とのかかわりがあった人なのかどうかは知らないが。カサヴェテスもまた、演劇とカメラとの特異な出会いの一つの例だろう。

『ドライブ・マイ・カー』の場合は、演劇が映画のなかに取り込まれている感じで、双方が直にぶつかることで何かが生じている感じではない(「演劇」というより、チェーホフのテキストが重要なのかも)。最近の(ぼくが知っている限りでの)演劇が映画カメラと出会うことで生まれるもののめざましい例は、草野なつかの映画と、関田育子の映像による演劇だろうか。