2022/03/15

●『1936年の日々』(テオ・アンゲロプロス)をDVDで観た。

アンゲロプロスは若い頃から大好きなのだが、一時期、「気持ちとして今ちょっと観られない」感じになっていたことがある。アンゲロプロスに限らず、(いわゆるシネフィルに評価されるような)二十世紀のモダンクラシックの映画の多くに対し、今はちょっとこれは辛い、という気持ちをもつようになった時期がある。たしかに立派だが、しかしもう、これは終わってしまったことなのだという感じがあった。

特にアンゲロプロスのような政治=形式みたいな作品のあり方は、今はもう不可能ではないかという気持ちがあった。『1936年の日々』がつくられた七十年代初め頃のアンゲロプロスにとって、政治的に左派であることと、芸術的(形式的)に前衛的であることは、分かちがたく結びついていたと思われる。七十年代初頭の軍事独裁政権下のギリシアで、1936年に起きた、右派が台頭する---左派が抑圧される---きっかけとなる事件を批判的に描くためには、常識的な作劇や演出では駄目で、それにふさわしい(アンチスペクタクル的な)新しい形式が見出されなければならない、と。

(それは、検閲で引っかからないように「容易には分からないような形式」である必要があった、という下世話なことまで含めてのこと。)

『1936年の日々』『旅芸人の記録』『狩人』は、そのような探求としてつくられる。しかしそれは逆に考えれば、70年代と政治的状況が大きく違っている現在では、その形式はもうふさわしくないということでもある。実際、アンゲロプロス自身も、晩年の作品において、内容と形式がかならずしもぴったりと重なっているとは言えないものになってくる。それで、これはちょっと今は観られないなあ、という感じになっていた。

しかし最近、それがまた変わった。きっかけは大島渚だ。60年代の大島渚の、松竹時代だけでなく、創造舎時代の作品の多くが配信で観られるようになって、それらを改めて観ることで、最も政治的だった60年代の大島渚が、今観てもなおすごいと思えた。『愛のコリーダ』や『戦場のメリークリスマス』よりも、『日本の夜と霧』『日本春歌考』『儀式』などの方がすごいと思う。とはいえ、そこでなされている政治的な主題や主張は、今でももう完全に古いものになっているようにぼくにはみえる。にもかかわらず、形式的にすごいのだ。

政治的に先鋭的であることが、形式的に先鋭的であることを導き、政治的な緊張をもつことが、形式的な緊張につながる。しかし、そのようなことが成り立っていたのが(成り立ち得たのが)、既にもう過去のことなのではないかとぼくは思う。60年代の大島渚、70年代のアンゲロプロス、その感じと、70年代以降の大島渚、80年代以降のアンゲロプロスとは違っている。

60年代の大島渚、70年代のアンゲロプロスの形式を、現在において再現することには大した意味がない。そのような形式と不可分だった現実がもはや変化してしまっているからだ。しかし、その時代の現実と緊密に結びついていたその形式は、(内容的な古さを感じたとしても)今観ても充分に刺激的だし、干からびているとは感じられない、と、改めて思い直した。

たとえばアンゲロプロスは、現在の視聴環境(動画配信を通じてPCのモニターやモバイルで映画を観る)ということを想定して映画を作ってはいないだろう。実際、今、日本ではアンゲロプロスは配信ではほとんど観られないのだが(そのせいでDVDがとても手が出ないくらい高騰してしまっている)。

だが、DVDをPCモニターで見るのならば、アンゲロプロスの長い上映時間などすこしも怖くなくなる。それを観るためのハードルはずいぶん下がる。『旅芸人の記録』が四時間近くあろうが、『アレクサンダー大王』が200分をこえていようが、前日から体調を整えて睡眠を充分にとり水分をひかえる必要もない(二十世紀的な映画体験と切り離せなかった「やせ我慢」が消える)。トイレに行きたくなったら一時停止すればいいし、眠くなったら一旦止めてコーヒーをいれてきてもよい。どうしても眠ければ少し寝てから続きを観ればよいし、時間がなければ数日に分けて観てもよい。そういう風に観たとしてもアンゲロプロスはなおアンゲロプロスであり、圧倒的にすごいということが分かった。というか、そういう風に観るからこそ得られる精度(新たなアンゲロプロス)というものもありえるのではないか。

(ぼくはもう、長い映画はそういう風にしてしか観られない。むしろ、そのように観ることができるからこそ、ネットの短い動画が主流となった現在生活のリズムにおいてもなお、二十世紀的なゆったりした映画の時間が体験可能になるのではないかとも思う。)

長い小説を何日かに分けてゆっくりと読むのが当然であるように、長い映画を何日かに分けてゆっくりと観て悪いはずがないと思う。

(『1936年の日々』の上映時間は105分で、長くないので続けて観たが。)