●昨日のことだけど、何年ぶりか分からないけど久々に『旅芸人の記録』(テオ・アンゲロプロス)を四時間通して観て(レビューを書くためだけど)、ぐわーっともっていかれた。『エレ二の旅』を観た時は、ぼくにとってのアンゲロプロスへの関心は終わったと思ったのだが(アンゲロプロスのスタイルがたんなる美的なスペクタクルになってしまっていた)、これは全然違う。すごく乱暴ですらある。
この映画は52年からはじまって、すぐに39年になって、途中何度か52年が挟まりながら時間が飛び飛びに展開して、最後に52年に返ってくるのかと思ったら、いきなり39年に戻って終わるのだが、このような展開が理解できるのは、日本語の字幕が親切に説明してくれるからで、字幕がなかったら、映画を観ながら「今が何年なのか」を把握することはきっと出来ない。というか、そのような複雑な時間の構成が分からないだけでなく、解説を読んだり、現代ギリシャ史をある程度知っていたりしないと、お話がまったく掴めないし、今、何が起こっているのか、誰が誰なのかさえよく分からない。しかも、そんなままで上映時間が四時間もある。つまりこの時のアンゲロプロスには観客とか評価とかに対する配慮がまったくない。ただ、こんなにすごいシーンを撮っているのだからそれで十分だろう、と乱暴に放りだす。これは絶対撮られるべきもので、絶対にすごいんだから、あとは、これが受け入れられるかどうかは、お前たちの問題だ、と。お前たちは自分で努力して調べたり考えたりて、これについて来られるようにしろ、と。
この映画は、それまで誰もそんな無茶をしたことがないというやり方でつくられており、しかも、ここにある「野心」は、成功とか評価とかに対する野心ではなく、人がこれを理解したり受け入れたり出来ようが出来まいが、とにかくこれだけはやっとかなくちゃいけないのだという、ほとんど狂気に近い確信に貫かれたものだ。そうでければ、こんなことを、ここまで徹底してやりきることは出来ないだろう。しかも、その確信には、(そんな風に映画をつくった人がそれまで誰もいないのだから)あらかじめ与えられた保障はまったくないのだ。
この映画をつくっている時のアンゲロプロスはどんな感じだったのだろうかと思う。この途方もない企てにかかわっていたスタッフやキャストに、その途方もなさはどれくらい共有されていたのだろうか。自分が、今まで誰もやったことがないようなやり方で映画を撮っているのだという手応えと共に、まさにそうであることの不安と孤独と共にもあったのではないか。自分とごく少数の人たち以外に誰にも知られないまま、その人たちと共に、世界の片隅でひっそりと、こんなにすごいものをつくりつつあるのだという興奮と、これを最後まで、十分な形で作り上げる力が本当に自分たちにあるのかという不安。行き先が見えないこと、未来が確定されていないことの、不安と自由のなかでの撮影。
旅芸人の記録』が特別なのは、そのような感触が刻まれているからだと思う。実際にこの映画が完成した後、それが世界中で大きな評価を得てしまった後では(それはアンゲロプロスの「スタイル」として認知-確定されてしまうから)、その感触は二度と戻ってこないのだ。
それにしても、この映画を観ると、自分はいかに臆病でちっちゃい人間なのか、思い知らされる。