2024/01/26

⚫︎Netflixで『不適切にもほどがある ! 』、第一話。久々に期待できる宮藤官九郎クドカンと言えば、ホモソーシャルとノスタルジーという感じだが、それを、このような形に組み替えることができるという発明。結構キワキワな薄氷を履むような展開で、どちらに転ぶのか(というか、どちらか一方に転んでしまうと)、その転びようによっては最悪の反動にも、紋切り型にもなりかねないが、一話にかんして言えば、なかなか素晴らしいのではないか。

(追記。宮藤官九郎が「ホモソーシャルとノスタルジー」というのは「IWGP」や「木更津キャッツアイ」のイメージで、さすがに根拠が古すぎる判断かもしれない。)

大島渚アンゲロプロスが、政治的対立や抗争をしばしば宴会の場や酒場でなされる「歌合戦(ダンス合戦)」として表現するのだが、このドラマの唐突なミュージカルシーンは、まさにそれを受け継いでいるように思った(つまりこれは必然的なことだ)。

(とはいえ、パワハラの「収め方」はやや弱いように感じたが。)

過去と現代を繋ぐのが主演の阿部サダヲで、彼は1970年生まれなので、1986年には16歳くらいだから、当時は、役の上での娘(河合優実)と同じくらいの年齢だった。つまりリアル阿部サダヲは、1986年も2024年も、異世界のように変化したこの両方の時代を知っている(生きている)存在として、このドラマの中にいる。そのことはとても重要なのではないか。

(リアル阿部サダヲは、このドラマで自分が演じているような教師に教育を受けていたわけだ。)

ぼくもまた両方の世界を知っているので、80年代ネタにはずっと笑いっぱなしだったが、この80年代ネタがギリギリでノスタルジーに染まっていないことによってこのドラマは成立しているように思う。ノスタルジーに染まっているのでもなく、かといって「過去の野蛮な時代」として対象化・戯画化されているのでもない。同じ強さによって現在と過去がぶつけ合わせられている。

(1986年と2024年を媒介するトンネルに小泉今日子のポスターが貼ってあるというのも、クドカンっぽい。)

(いきなりキレ出す仲里依紗の演技が素晴らしかった。)

⚫︎それらとはまた別の感情として、ああ、こんなに遠くまで来たのか、という感慨がある。それはノスタルジーとは逆の感覚で現在の側に軸があり、あそこからここまで来たのか、あるいは、あそこはこんなにも遠くなったのか、という感じ。これは、戦争を経験した人が、高度経済成長のやバブルのさなかで感じていたことと近いものかもしれないとも思う(ただ、遠くなったとはいえ「薄く」なったわけではまったくなく、濃いままであるのだが)。

⚫︎阿部サダヲが吉田羊に酷いことを言いまくる場面で、「うわっ、ひでえな、ダメな奴のテンプレだな」と思うと同時に、「でも、ちょっと前までは、みんな平気でこんなこと言ってたんだよな」という感覚が自分の中にも確かに残っていて、自分が二つに分裂するようだ。