2024/02/09

⚫︎『不適切にもほどがある ! 』、第三話。ドラマとして相変わらず面白いが、ちょっと甘い感じのところが気に掛かった。一話でも、パワハラ問題の収め方にかんして、え、そういう方向で収めちゃっていいの ?、と、疑問に感じだが、それは全体の面白さからすれば些細な甘さだと思った。だが、三話でも、セクハラのガイドラインが欲しいという問いに、「娘にしないことはしない」という「提案」が示されるのだけど、それをあたかも「解」であるかのようにされると、うーん、ちょっとそれは、と、モヤモヤする。そもそも、そう簡単には解決しないような問題の「解」を示すことが目的のドラマではないのだから(そうではなく、ある種の抗争状態を示すことが重要ではないか)、中途半端な甘い解決を入れる必要はないのではないかと思う。せっかく面白いのに、下手をするとその甘さが決定的な瑕疵となってしまう危険もあるように感じた。

(追記。ロバート秋山について「本当は紳士的」みたいなエクスキューズをつけるのも、ちょっと嫌だなあと思った。嫌な感じ→いい感じだと「実はいい人」になって、いい感じ→嫌な感じだと「実は嫌な奴」となるが、それは場面を出す順番の問題でしかない。順番に依存せず、多面性を多面性として描くのはけっこう難しい。)

コクプライアンスは倫理ではない。それは、資本主義における危機管理の問題で、つまり、「部下に不適切な言動をとるとあなたはその地位を失いますよ、だから気をつけてください」というようなものだ(つまり、「社会」はそれを許しませんよ、ということだ)。対して倫理とは、社会的に不利益であろうとなかろうと、どのようにあるべきで、どのようにあるべきではないか、ということだろう。そして、社会的な運動(たとえば、マイノリティの人権の擁護)は、コンプライアンスの要求と倫理への問いとの間を行き来するものなのではないか。

(第三話のプロデューサーが、「適切であろうと努めること」から「不適切は許されない(不適切だと罰せられる)ので不適切である可能性をとにかく避けること」へと滑り落ちてしまうのは、コンプライアンスが「危機管理」である以上、必然的なことだとも考えられる。)

コンプライアンスには正解と不正解、適切と不適切があるが、倫理にはあらかじめ確定された「正解」はない。そして、あらかじめ正解と不正解とが確定されている場では、円滑な物事の進行や、問題(事故や暴力)の未然の防止、または不適格者への告発、そして反省とあり得べき訂正・認識変更はあっても(もちろん、それらがあることは、とてもとても重要なことだ)、おそらくコミュニケーションはない。コミュニケーションは、(あらかじめ「正解」の存在しない)失敗可能性に開かれた場でしか起こらないのではないか。「昭和のオヤジが現在に現れた」というシチュエーションは、決して「昔は良かった」ということではなく、「失敗可能性の塊」が現れた、ということなのではないかと思う。別に昭和末期が良かったわけではまったくなく、異質な文脈にあるものが唐突に接木されることで生まれる「失敗可能性の塊」が、非常に乱暴なやり方でコミュニケーションの回路を開く/あるいは閉ざす様が、コメディとして組み立てられている、ということだろう。阿部サダヲが、昭和のダメ親父ではあってもガンコ親父ではない(むしろ柔軟でありすぎる)ことはとても重要だ。

このドラマで重要なのは、そこで開かれるコミュニケーションのありようで(コミュニケーションはコンフリクトでもある)、決して「適切な解」ではないのではないかと思う。

(その上で、野蛮なコミュニケーションなどより「正解」の方が重要だという立場の人もいるだろう。)

(クドカンの、やや古い感じの家族主義みたいな感覚は、大衆作家としては大きな強みだと思うが、攻めた作品では弱点でもあり得るかも、とも、ちょっと思った。)