2020-10-17

●今月の文芸誌の「新人」の小説は、「強い」「濃い」作品が多くて、ややおとなしい感じがしてしまうのだが、井戸川射子「ここはとても速い川」(群像)もよかった(「新人小説月評」では一、二行の雑なコメントしかできないけど)。前作の「膨張」をあまりよいと思えなかったので意外だったが。

この小説は、子供の目から見た世界を描く物語としては(読みながら先の展開をある程度予想できるという意味で)定型的な形をとっていると言えると思うのだけど、形は定型でも中味がちゃんと詰まっているというか、定型であるからこそ、深く掘り下げて書くべきところ、避けられないところが明らかとなり、そこがしっかりと力を込めて書かれているという感じ。

定型という言い方をすると、あらかじめ決められた形が外から与えられるというニュアンスになってしまうのだが、そうではなく、ある主題に対して、あるアプローチを行おうとするとき、必然的にある程度決まった段取りがあらわれる、ということだと考えた方がいいのか。

たとえば小説の終盤に、主人公が、友人にしばしばセクハラしてくる女性教師(施設の職員)に抗議しに行く場面があって、全体の流れからこの場面を避けることはできないということは途中を読んでいる時から明らかで、そして、この場面をどう書くのか、この場面の説得力がどうなるのか次第で、いままで積み上げてきた(子供の目線で描かれることによって生まれる)世界の感覚的な生々しさまで台無しにしてしまいかねない危険ない場面でもあるだろうと予測される。

(なぜそう思うのかを明確に書くのは難しい。作品内で貫かれる論理・倫理と、作品の外から来る---一般的な---倫理との相克が、はっきりと出やすい場面だと思われるから、作品外の倫理との折り合いの付け方次第では、重要な場面で作品そのものを裏切ってしまいかねない、というのが無理に絞り出した回答となる。が、これはあまり正確な言い方とは言えない。)

この場面で、女性教師の気持ち悪さを際立てると同時に、その女性教師が負わされている別の文脈の重みが仄めかされ、「気持ち悪さ」にもそこに陥らざるを得ない由来があるかもしれないことが示される。小説のはじめの方から、女性教師の気持ち悪さは感覚的には十分な説得力が持たせられているのだが、その向こうにあり得る文脈がうかがえることで、感覚だけでは捉えられない世界の厚み(どの人物も関係に強いられる逃れられない瘤をもつ)がそこに裏打ちを与える。主人公は、ある種の「どうしようもなさ」として世界の厚みを知る。知ることで、ある「重み(悲しみ・諦め)」をまとわざるを得なくなる。

主人公は施設の子供であり、親代わりでもある施設の職員-教師に依存しなければ生きていけないという意味で、二人の力関係は非対称的であるが、職員-教師の側も常に強者ということはなく、別の関係のなかでは抑圧される側にあり、そして、弱者側である子供が、職員-教師もまた常に強者ではないと知る時、職員-教師と子供の関係に部分的な逆転が起り、子供の方がある意味で優位に立つ。しかしこの優位とは、気持ちの悪い抑圧者に対して「悲しみ」という情をもつということであり、必ずしも主人公にとって「好ましい(うれしい)」状態ではない。ここで、気持ち悪い抑圧者は必ずしも「敵」とは言えなくなり、抑圧された側が抑圧する側に抗議するという行為はなし崩しになってしまう。

とはいえ、明示的に描かれてはいないが、この対話によって変化したのは主人公-子供だけでなく、女性教師-職員も何かしら思うところはあったはずだ。その後、女性教師は施設を去るのだが、それが女性教師の改心によるものなのか、施設による処置なのかは分からない。しかし、この小説が、抗議の場面を、相互変化の可能性のある対話の場面として書いたということが重要なのだと思う。

(この場面はここにまるごと引用---書き写し---したいのだが、ちょっと長いのであきらめてしまった……。)

こういう場面が、(定型によって要請されることで)ちゃんとあることが、そして「ある」以上ちゃんと書かれなければならないということが、納得(説得力)の度合いのちがいとして出てくるのだと思う。