2020-10-18

●仙田学「剥きあう」(文學界)。女装する男性の話。

(今年になって読んだ小説で「女装」をモチーフにしたものは他に、『クロス』(山下紘加)と『ファルセットの時間』(坂上秋成)があるが、どれも興味深いものだった。)

この作品において「女装」する男性は、(とりあえずは)性自認が男性であり、セクシャリティ異性愛の人である(同性愛やトランスジェンダーの問題が扱われているわけではない)。そのような意味で、ここでは「女装」とはとても男性的な主題---男性性についての考察---だと言える。この場合に問題になることを、だいたい三つくらい考えられると思う。

(1)シスで異性愛の男性が、それでも女装しようとするときに、そこにどのような内的欲望のメカニズムが作動しているのか。(2)シスで異性愛の男性が、女装することで(いわゆる)女性的なイメージを身にまとったときに、それによって自分自身に対する自分自身の関係(態度)にどのような揺らぎや変化が起るのか。(3)シスで異性愛の男性が、女装することで(いわゆる)女性的なイメージを身にまとったときに、それによって自分と他者(たとえばパートナー、たとえば同性、たとえば社会)との関係(態度)にどのような揺らぎや変化が起きるのか。

(とはいえ、問題は三つにきれいに切り分けられるのではなく、問題は、ずれ込んで、重なり合い、相互に作用し合っているわけだが。)

加えて重要なのは、この小説は夫婦の話でもあって、女装する夫に対する妻の態度が書かれることによって、役割として強いられた男性性と女性性が、互いに互いの有り様を映し合う、という形になっていることだろう。